松田康雄(二代目沼澤会組織委員長・松田組組長) 秋山義雄(六代目中里一家幹事長・福永一家四代目総長) 頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5月27日) - 昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥でもある。号は立雲。, 玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。, 条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、朝鮮の金玉均、中国の孫文や蔣介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。, 安政2年(1855年)4月12日、筑前国早良郡西新町の福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれる。幼名は乙次郎。後に母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって頭山満と改める。「小さいときから記憶力が強くて物事を語ることが鋭敏」だったと言われている。町でサツマイモを売り歩く貧しい少年時代をすごす。慶応元年(1865年)、11歳の時に「楠木正成のような人物になりたい」という思いから生家の庭に植えたクスノキが、現在も生家跡(現・西新エルモールプラリバ)北側の西新緑地に残る[1]。, 16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む高場乱(たかば おさむ)という男装の女医が開いていた興志塾(高場塾)に入門する。興志塾は他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。頭山はここで進藤喜平太、箱田六輔ら後の玄洋社の創設メンバーと出会う。頭山は晩年、当時のことを「教えは徹頭徹尾、実践だった」と回想している。, 明治9年(1876年)に秋月の乱、萩の乱が起こると、頭山はこれに呼応して進藤、箱田らと共に旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄された。翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)したが、それに参加し尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷の死の翌日であった。頭山らは海の中道に開墾社を創設し、松林を伐採し田畑を開墾して自給自足の生活を送りながら心身の鍛錬に励み、来るべき時に備える日々を送る。, 西南戦争の翌年の明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺された(紀尾井坂の変)。西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して、頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。これをきっかけに自由民権運動に参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と交流を結ぶ。, 高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分に気前良く金を与え「スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。, 玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成された。成立年については諸説があり、大正時代に書かれた『玄洋社社史』では明治14年(1881年)2月となっているが、それ以前の活動の記録が残っており、最近では明治12年(1879年)12月成立という研究結果もある。社員は61名。自由民権運動を目的とした結社ではあったが、誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕しており、束縛がなくきわめて自由な組織だったと言われている。このなかから、異彩を放つ人材が数々輩出し、近代史に足跡を残すことになる。箱田六輔(30歳)・平岡浩太郎(29歳)・頭山満(25歳)は「玄洋社三傑」と称された。, 明治13年(1880年)5月に、頭山は福岡から徒歩で東京に向かい、早稲田の近くに一軒家を借りて住み始めた。7月初めには東北地方に行脚の旅に出て、福島の河野広中はじめ多くの民権運動家と出会った。明治14年(1881年)、政府は国会開設の詔を発布し、九年後の国会開設を決定した。自由民権運動は目標を失い、板垣退助は自由党を結成して政党政治の時代に移行する。九州でも民権派が結束して九州改進党が発足し、玄洋社にも誘いが来た。しかし、党利党略に明け暮れる運動家たちを嫌った頭山は加盟を見合わせ、玄洋社の面々は各自の事業に専念するようになる。『玄洋社社史』は当時の様子を「頭山は平尾の山荘にあって社員らと農業にいそしみ、箱田は養蚕を業とし、平岡は鉱業に専念する」と伝えている。, 明治17年(1884年)12月6日、朝鮮で日本と結んで自国の近代化を目指した金玉均が率いる独立党によるクーデター(甲申政変)が起こるが、清国軍の介入により三日間で失敗に終わった。, 頭山は翌年、半島から長崎にたどり着いた金玉均と神戸の西村旅館で会い、支援のため当時の金で500円(2020年現在の価値で約1,000万円程度)という大金を渡した。, 明治20年(1887年)8月、頭山は『福陵新報』(九州日報の前身)を創刊し、社長に就任した。玄洋社の中心的人物でありながらその社長になることすらなかった頭山が生涯で唯一持った肩書だった。紙面は活気に満ち売れ行きも順調であった。この時期に議論の的となったテーマは、不平等条約改正反対運動の盛り上がり、清国に対する敵愾心などである。, 政党政治が始まった当時の日本で、最も関心が高かったテーマの一つが条約改正である。これは、幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題であるが、実際に政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。頭山は、その不平等条約改正反対運動のリーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考え自由民権運動とは一線を画す手法をとるようになっていた。明治22年(1889年)10月18日、首相・黒田清隆が「改正を断行する」と閣議で発言したのを受けて、改正交渉の責任者であった外相・大隈重信が外務省門前で爆弾を投げ付けられて右脚切断の重傷を負う事件が起きた。犯人の来島恒喜は元玄洋社員だったが、その場で頸動脈を切って自殺したため背後関係は不明のままとなった。この事件で黒田内閣は瓦解、条約改正交渉も白紙に戻った。, 明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙が行われ、政府側は敗北した。日清戦争に向けての軍備拡大を進める政府の予算案は、第一回の議会では土佐派の切り崩しで辛うじて通過したが、翌年の議会では否決される形勢となった。そこで首相・松方正義は衆議院を解散するとともに、次の選挙での民党の締め付けを行った。これが明治25年(1892年)の選挙干渉であり、民党支持者に対して買収や脅迫が公然と繰り広げられ、時には警官までもが動員された。玄洋社も選挙干渉への協力を求められ、その実行者となった。, 大規模な選挙干渉にもかかわらず、第2回衆議院議員総選挙も政府側の敗北に終わった。その後、玄洋社は結社としての活動を縮小し、頭山は自由民権運動の志士から脱却し、「国士」としてアジア主義への道を歩み始める。, 明治28年(1895年)、日清戦争の終結後、広州での武装蜂起を企てた孫文が、密告されたため頓挫し日本に亡命した。孫文は明治30年(1897年)、宮崎滔天の紹介によって頭山と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。, 明治32年(1899年)、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。明治44年(1911年)、辛亥革命が成功し、その翌年、孫文が中華民国臨時政府の大総統に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。その後、袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、大正2年(1913年)の春に前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していたというが、その予言通り袁世凱と争って破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて首相・山本権兵衛に交渉し、亡命を認めさせた。孫文が匿われたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家である。, 明治35年(1902年)、欧米列強による清の半植民地化が加速し、日本とロシアの対立が鮮明になるなか、日本は対ロシア戦略のもとに日英同盟を締結し、頭山も対露同志会を設立した。明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると玄洋社は若者を中心に満州義軍を結成、参謀本部の協力を得て満州の馬賊を組織し、ロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開した。, 玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍したとされている。杉山茂丸や内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。「合邦」の詳細については定かではないが、内田は現実の日韓併合に対して憤激しており、初めは協力的だった玄洋社と日本政府の関係は後に大きく離間していった。, 大正4年(1915年)、頭山は孫文の仲介により、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースと会談し、支援を決意した。当時のラス・ビハリ・ボースはイギリス領インド帝国の植民地政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府から要請を受けていた日本政府によって、国外退去命令を受けていた身であった。, 並行して日本国内では、1919年11月、河合徳三郎、梅津勘兵衛、倉持直吉、青山広吉、篠信太郎、西村伊三郎、中安信三郎を中心とし、原敬内閣の内務大臣・床次竹二郎(立憲政友会)を世話役に、伯爵大木遠吉を総裁、村野常右衛門を会長、中安信三郎を理事長として、会員数60万と称する大日本国粹会を立ち上げた。, またボースの紹介により、当時のインドの独立運動家で、アフガニスタン首長国にインド臨時政府を樹立していたマヘンドラ・プラタップにも会った。大正12年(1923年)、頭山は来日したプラタップの歓迎会を開き、援助を約束した。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を想わしむ」との賀詞をアフガニスタン首長に送った。, 頭山はこのような独立支援の対象をフィリピン、ベトナム、エチオピアなど当時アメリカやフランス、イタリアなどの列強の帝国主義の元にひれ伏していた地にも拡大していった。, 大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。, 翌年、孫文の後継者として蔣介石が中華民国の国民軍総司令官に就任したが、その2年後には下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蔣介石は、頭山らに激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。昭和4年(1929年)、南京の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席している。, 昭和7年(1932年)の関東軍の主導による満州国建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れていた。昭和10年(1935年)、来日した満州国皇帝溥儀の公式晩さん会への招待を、頭山は「気が進まない」との理由で断わっている。, 日中戦争(支那事変)が勃発した昭和12年(1937年)通州事件が起き、当時の首相・近衛文麿は、父の近衛篤麿や外相・広田弘毅と親密な関係だった頭山を内閣参議に起用する計画を立てた。その上で蔣介石と親しい頭山を中華民国に派遣し、和平の糸口をつかもうとした。, 近衛から打診をうけた頭山は内諾したが、頭山を「市井の無頼漢に毛の生えたもの」と見ていた内大臣・湯浅倉平(元警視総監・内務次官)が参議起用に反対したため実現しなかった[2]。, 戦争が長期化し、日英米関係も悪化していた昭和16年(1941年)9月、頭山は東久邇宮稔彦王から蔣介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社主筆の緒方竹虎に蔣介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。, これを受けて東久邇宮が首相・東條英機に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。東久邇宮はこの時の事を「頭山翁は、衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、満州事変も不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。翁の口から蔣介石に国際平和の提言をすすめてもらうことを考えた」と書き残している(東久邇宮著『私の記録』)。, 頭山は静岡県御殿場の富士山を望む山荘で、第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)10月5日、89年の生涯を閉じた。, 晩年は、揮毫をすることと囲碁を楽しむことを日課として静かに過ごしていた。頭山は長年にわたり囲碁界の後援者であり、本因坊秀栄らを後援。また、秀栄と金玉均とをひきあわせた。, 倒れたのは室で碁盤に向かっている時であった。存命中は常々、「おれの一生は大風の吹いたあとのようなもの。何も残らん」と語っていた。葬儀委員長は元総理の広田弘毅がつとめた。, 頭山家の菩提寺である圓應寺と博多、崇福寺 (福岡市)の玄洋社墓地にも墓はあるが東京青山霊園にも墓があり、その同じ墓所の隣には交通事故死した三男の頭山秀三の墓がある。, 「明治天皇、頭山満、大隈重信 偉人の子孫が総選挙に続々登場」『NEWSポストセブン』2012.12.03, ユーミンと大物右翼「頭山家」の知られざる血脈と交流 ポップカルチャー界の「華麗なる一族」, 頭山満という巨人 戦後六十年を経過して 葦津泰國氏(葦津珍彦著『大アジア主義と頭山満』より), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=頭山満&oldid=80373064, 頭山は金銭の使い惜しみをせず、このことが頭山の迫力・魅力を倍増させた。財源は玄洋社社員の事業収入もあったが、倒産覚悟で支援してくれる企業家も少なくなかった。頭山は、資産がある時は, ラス・ビハリ・ボースを自邸にかくまったとき、ある人が頭山に向かって、「そんなことをすると法律に背きます。縛られます」と言ったところ、頭山は「わしは法律というやつが嫌いでね。だいいち憲法というのは、わしの嫌いな伊藤公が書いたのだろう。それから細かい法律となると議員どもが作るのじゃないか。わしはそんなものに関係しないぞ」と答えたという, ファンタジー小説の悪役として登場。「アムール会のトーヤマ」と呼ばれ、西洋人や伊藤博文らの側の視点で“背の高い不気味な人物”という描写.

松本武士(五代目向後睦会慶弔委員長・松本組組長) 鈴木清二郎(六代目中里一家統括長・中居指六代目) 会 長 - 関 功(共和一家六代目総長), 初 代 - 伊東松五郎(日本橋住吉町貸元) 青木繁宣(二代目沼澤会理事長・三代目青木組組長) 海老澤浩(四代目親和会幹部・五代目羽黒一家理事長・海老澤組組長) 森田芳明(四代目親和会相談役・十三代目勘助一家顧問・森田組組長) 松戸一郎(大日本興行会長)

大野吉英(九代目家根弥一家総長) 頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年 5月27日) - 昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。 玄洋社の総帥でもある。 号は立雲。. 鈴木義博(鈴木組本部長) 渡邊詔八(二代目西和一家総長代行・六代目錦戸会会長) 杉野良一(青心会会長) 会 長 - 西口茂男(二代目向後睦会会長・六代目住吉一家総長), 会 長 - 西口茂男(二代目向後睦会会長・六代目住吉一家総長) 谷川健三(七代目領家一家舎弟頭) 最上孝弘(九代目西海家総本部長・七代目吉田会会長) 大内秀次(丸唐会特別相談役・五代目小名一家総長) 山本哲也(三代目大日本興行幹事長・山本組組長)

木本在成(十三代目幸平一家幹事長補佐・中野北貸元・木本組組長) 総務長 - 永井 實(六代目中里一家総長) 審議委員長 - 大橋時男(十代目武蔵屋一家本部長・大橋組組長) 諮問委員長 - 小坂 聡(十三代目幸平一家幹事長補佐・新宿落合貸元・加藤連合会会長) それは、いまから47年前の1964年8月24日の早朝に起こった。忠夫と寿美の間に生まれた、当時生後5か月の長男・道夫ちゃんが殺害されたのだ。犯人はその日のうちに判明。高島家でお手伝いとして働いていた17才の少女だった。 濱野信春(武州伊勢野一家初代総長), 関 照生(二代目沼澤会会長) 矢野靖之(九代目西海家幹事長・五代目藤川会会長) 金井豊光(七代目音羽一家総長) 柳川昭隆(四軒寺一家初代総長補佐) 古永 茂(七代目馬橋一家執行委員長・古永組組長) 安藤 博(十三代目幸平一家執行部・目白貸元・安藤組組長) 高瀬輝明(七代目領家一家総長) 渡辺幸雄(四代目親和会特別相談役・八代目泉一家総長) 葛西一能(七代目馬橋一家風紀委員長・柏靖会理事長・南柏貸元・葛西組組長) 直井哲也(二代目沼澤会渉外委員長・直井組組長) 中野 勉(六代目奥州山口一家総長) 梅田幸三(四代目花田会会長) 岩田光芳(三角一家九代目総長) 飯高孝一郎(七代目馬橋一家慶弔委員長・柏靖会代行補佐・飯高組組長)

大友良二(十代目武蔵屋一家幹事長・六代目小千鳥組組長)

星野淑之(京王会理事長) 荒木光義(二代目沼澤会総務委員長・荒木組組長) 東京城北地区統括長 - 小林雄二郎(三代目青田会理事長・六代目鼈甲家一家総長) 亀井康雄(四代目親和会本部長・三代目栃木一家総長) 六代目 - 西口茂男(二代目向後睦会会長) 柿沼三郎(十代目武蔵屋一家理事長・松ヶ谷三代目・柿沼興業組長) 山田孝二(九代目西海家理事長・六代目武田会会長) 三代目 - 阿部重作(芝浦高木組代貸) 芳賀 勲(九代目西海家総長代行・三代目西志会会長) 北関東地区統括長 - 稲葉和三(四代目親和会理事長・八代目山越一家総長) 船山健一(四代目親和会事務局長・十三代目勘助一家本部長・船山総業組長) 高橋房一(三心会会長) 浅野泰三(七代目馬橋一家渉外委員長・浅野組組長) 金子君生(十三代目幸平一家総長室長・三代目村田会会長) 高沢哲夫(七代目日野一家総長) 黒岩一輝(六代目川越平塚一家理事長) 理事長 - 柴崎靖忠(七代目馬橋一家総長) 浅見 明(七代目馬橋一家総局長)

渡邉英雄(四代目花田会会長補佐) 田村雅之(五代目矢畑一家本部長・田村組組長) 村田吉弘(四軒寺一家初代総長) 敦賀英明(七代目馬橋一家懲罰委員長・敦賀組組長) 会 長 - 福田晴瞭(二代目小林会会長・七代目住吉一家総長) 柴田光男(四代目親和会会長付・四代目光京家一家代行・田沼・葛生貸元) 1993年のドラフト1位で近鉄バファローズに入団。 遠山武志(六代目鶴川一家総長) 事務局長 - 松山博文(二代目野口会会長), 長久保征夫(三代目青田会会長・府中一家初代総長) 上野宣彦(二代目野口会理事長・森下高橋貸元) 相良福一(三代目小林会会長代行) 東京城東地区統括長 - 上田 明(三代目小林会幹事長・上田組組長) 宮部大治(七代目馬橋一家執行委員長) 初 代 - 伊藤松五郎 二代目 - 倉持直吉 三代目 - 阿部重作(港会初代) 四代目 - 碩上義光(港会二代目) 五代目 - 堀 政夫(中里一家四代目) 六代目 - 西口茂男(向後睦会二代目) 七代目 - 福田晴瞭(小林会二代目) 大塚隆生(四代目親和会幹部・六代目大和屋一家理事長) 役職や名称等、人事の変更などで必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。. なお、捜査が現在も継続している事件はこのチームでは扱わないとしている。 2010年8月、警察庁は未解決事件の捜査専従班を警視庁と各道府県警察に設置する方針を決めた。 ... 葛生事件 群馬一家3人殺害事件 . 福田真武(八代目滝野川一家懲罰委員長) 田口 久(二代目東京共和会会長補佐) 小野 睦(二代目西和一家理事長・六代目阿部組組長) 統括委員長 - 高橋勝郎(二代目西和一家総長) 名張毒ぶどう酒事件(なばりどくぶどうしゅじけん)とは、1961年(昭和36年)3月28日の夜に三重県名張市葛尾(くずお)地区の公民館で発生した大量殺人事件。, 名張市の実質飛地と隣接する奈良県山辺郡山添村にまたがる集落の懇親会酒席で振る舞われたワイン(ぶどう酒)に毒物(農薬・ニッカリンT)が混入され、そのワインを飲んだ女性17人が中毒症状を起こして5人が死亡した。, 「第二の帝銀事件」として世間から騒がれたこの事件で、被疑者・被告人として逮捕・起訴された奥西勝(おくにし まさる、事件当時35歳)は刑事裁判で死刑判決が確定したが、冤罪を訴えて生前9度にわたる再審請求を起こし、死刑確定から43年間にわたり死刑執行が見送られ続けた一方で、再審請求も認められることなく、名古屋拘置所で獄死した(89歳没)[1][2]。, 当事件を題材とした出版物・ドキュメンタリー番組・テレビドラマも多く制作されたが、そのほとんどが「当事件は冤罪である」との立場に立ったものである。日本弁護士連合会が支援する再審事件である。, 奥西は1926年(大正15年)1月14日[3]に事件の舞台となった名張市葛尾地区で生まれる[4]。, 奥西は1940年(昭和15年)に高等小学校を卒業後、参宮急行電鉄{参急、後の関西急行鉄道(関急)→近畿日本鉄道(近鉄)}に入社した[4]。奥西は地元では「長身の美男子」として評判で[5]、のちに事件で死亡した奥西の妻も近鉄名張駅で働いており、奥西夫妻は一部親族の反対を受けつつも懸命に説得して結婚し、1男1女の子供に恵まれた[4]。, 1961年3月28日、三重県名張市葛尾の薦原地区公民館葛尾分館(現存しない)で、地区の農村生活改善クラブ(現「生活研究グループ」)「三奈の会」[6]の総会が行われ、男性12人と女性20人が出席した。この席で男性には清酒、女性にはぶどう酒が出されたが、ぶどう酒を飲んだ女性17人が急性中毒の症状を訴え、5人が亡くなった。, 捜査当局は、清酒を出された男性とぶどう酒を飲まなかった女性3人に中毒症状が見られなかったことから、女性が飲んだぶどう酒に原因があるとして調査した結果、ぶどう酒に農薬が混入されていることが判明した。, その後、重要参考人として「三奈の会」会員の男性3人を聴取する。3人のうち、1人の妻と愛人がともに被害者だったことから、捜査当局は、「三角関係を一気に解消しようとした」ことが犯行の動機とみて、奥西を追及。4月2日の時点では自身の妻の犯行説を主張していたが、4月3日には農薬混入を自白したとして、三重県警察に逮捕された。逮捕直前、奥西は名張警察署で記者会見に応じた。しかし、逮捕後の取り調べ中から犯行否認に転じる。, 1964年12月23日、第一審・津地方裁判所(小川潤裁判長)は、検察側の死刑求刑を退け、奥西に無罪判決を言い渡した。津地裁は判決理由で、自白の任意性を否定しなかったが、目撃証言から導き出される犯行時刻や、証拠とされるぶどう酒の王冠の状況などと奥西の自白との間に矛盾を認め、同日、奥西は釈放された。津地方検察庁はこの判決を不服として、名古屋高等裁判所に控訴した。, 1969年9月10日、控訴審・名古屋高裁(上田孝造裁判長)は、第一審の無罪判決を破棄し、奥西に逆転死刑判決を言い渡した。奥西は同日、名古屋拘置所に収監された。名古屋高裁は、目撃証言の変遷もあって犯行可能な時間の有無が争われたことについて、時間はあったと判断、王冠に残った歯形の鑑定結果も充分に信頼できるとした(弁護側鑑定人の日本大学歯学部助教授は、王冠に残った痕跡から犯人の歯型を確定するのは不可能である、とした)。奥西は判決を不服として最高裁判所に上告した。, 1972年6月15日、最高裁判所(岩田誠裁判長)は上告を棄却した[7]。これにより、奥西の死刑が確定判決となった。, 1974年、1975年、1976年、1977年、1988年と5次にわたる再審請求はすべて棄却された。1980年9月、請求審で初の現場検証、1986年6月、請求審で初の証人尋問。1988年12月、名古屋高裁が再審請求を棄却。, 奥西の母親は息子・勝の無実を信じつつ獄中へ励ましの手紙を送り続けていたが1988年に88歳で死去し、「父親が無実を勝ち取ったら一緒に暮らしたい」と願っていた長男も癌のため2010年に62歳で死去した[4]。奥西の長男は遺言として「自分が死んだ知らせは父にはまだ知らせるな。無罪が確定して釈放されたときに知らせてくれ」と遺言していた[4]。, 1993年に名古屋高裁が異議申立の棄却、4月に弁護団が最高裁に特別抗告。1997年に最高裁が特別抗告の棄却、同年に第5次再審請求の棄却、1998年10月に名古屋高裁が第6次再審請求を棄却、弁護団が異議申し立て、1999年9月に名古屋高裁が異議申立の棄却、弁護団が最高裁に特別抗告、2002年4月に最高裁が特別抗告の棄却。, 2002年に弁護団が名古屋高裁へ第7次再審請求。2005年2月、毒の特定で弁護側鑑定人を証人尋問した。, 2005年4月5日、名古屋高裁(第1刑事部・小出錞一裁判長)は再審開始を決定した。同時に死刑執行停止の仮処分が命じられた。王冠を傷つけずに開栓する方法がみつかったこと、自白で白ワインに混入したとされる農薬(ニッカリンT、有機リン系の殺虫剤、TEPP(テップ)剤の一種)が赤い液体だと判明したこと、残ったワインの成分からしても農薬の種類が自白と矛盾すること、前回の歯形の鑑定にミスが見つかったことなどが新規性のある証拠だと認めた。なお、小出錞一は2006年2月に依願退官した。, しかし同年4月8日、検察側は、ニッカリンTは析出されていた白い液体の物が回収されずに、事件当時は白い液体と赤い液体と混合して流通していたことなどの異議申立を行った。これを受け、2006年9月に毒の特定について、名古屋高裁は弁護側鑑定人を証人尋問した。2006年12月26日、名古屋高裁(第2刑事部・門野博裁判長)は、再審開始決定を取り消す決定をした(死刑執行停止も取り消し)。, これに対し、弁護側が2007年1月4日に最高裁に特別抗告したところ、最高裁は2010年4月5日付決定で、犯行に用いられた毒物に関し「科学的知見に基づき検討したとはいえず、推論過程に誤りがある疑いがある。事実解明されていない」と指摘し[8]、再審開始決定を取り消した名古屋高裁決定を審理不尽として破棄し、審理を名古屋高裁に差し戻した[9]。田原睦夫裁判官は、同最高裁決定で補足意見として「事件から50年近くが過ぎ、7次請求の申し立てからも8年を経過していることを考えると、差し戻し審の証拠調べは必要最小限の範囲に限定し、効率よくなされるべき」と述べている[10][11]。翌日に弁護団は「第7次再審請求最高裁決定についての弁護団声明」を[12]、また同じ日に日本弁護士連合会(会長・宇都宮健児)は「名張毒ぶどう酒事件第7次再審請求最高裁決定についての会長声明」で[13]、「すでに重大な疑いが存在することは明らか」であるから原決定を取り消したうえで最高裁の判断で再審開始決定すべきだったと述べ、差し戻ししたことを「遺憾である」と批判した。また、日本国民救援会(会長・鈴木亜英)も、2010年4月7日付の会長声明「名張毒ぶどう酒事件第7次再審最高裁決定について」で、「『再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りる』という1975年の白鳥決定の見地からすれば、差戻しによってさらに審理を継続させることなく、自判して、再審開始決定を確定させるべきであった」と述べている[14]。, 2010年3月上旬、名古屋拘置所で面会した特別面会人によれば、再審開始が決定された布川事件や、再審無罪が確実視されていた足利事件などに触れた際、奥西は「布川や足利はよかった。私も最高裁決定に非常に期待している」と述べたという[15]。, 2012年5月25日、名古屋高裁(下山保男裁判長)は『捜査段階での被告人の自白に信用性が高い』と看做し、検察側の異議申立てを認めて本件の再審開始の取り消しを決定。これに対して被告人弁護側は5月30日、最高裁判所へ特別抗告を行った[16]。日本弁護士連合会(日弁連)は「新証拠によって生じた疑問が解消されていないにもかかわらず、検察官も主張しておらず、鑑定人さえ言及していない独自の推論をもって、新証拠が『犯行に用いられた薬剤がニッカリンTではあり得ないということを意味しないことが明らかである』として、再審請求を棄却した」と、この決定を非難している[17]。, 2013年10月16日、最高裁判所第1小法廷(桜井龍子裁判長)は名古屋高等裁判所の再審取り消し決定を支持し、第7次再審請求にかかる特別抗告について棄却する決定を下した[18]。, 2013年11月5日、弁護団が名古屋高裁へ第8次再審請求を申立。2014年5月28日、名古屋高裁刑事第1部は請求を認めない決定をした。決定理由で、弁護団が提出した証拠について「全証拠と総合考慮したとしても、確定判決に合理的な疑いを生じさせるものではない」などと指摘。「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとはいえず、再審は認められない。第7次請求と同一の証拠、同一の主張で、もともと請求権は消滅していた」と結論づけた。約半年で判断を示した理由として、「奥西死刑囚の健康状態の悪化と加齢の程度」を挙げた。2015年1月9日、第8次再審請求異議審において、同高裁刑事2部も同1部の決定を支持、検察側、弁護側との三者協議を一度も開かずに審理を終え再審請求を却下した[19]。, 2020年10月28日、ぶどう酒瓶の王冠を覆っていた封かん紙から、製造段階とは違うのりの成分が検出されたとする再鑑定の結果を、第10次再審請求の異議審が行われている名古屋高裁に新証拠として提出した。弁護団は「封かん紙が貼り直されたことが明らかになった。真犯人が偽装工作をした可能性を示している」と主張している。, 奥西は2012年6月に肺炎を患い体調が悪化、名古屋拘置所から八王子医療刑務所に移送され、人工呼吸器を装着して、寝たきりの状態になっていた[20]。, 2014年4月19日には、日本で生きている死刑囚で日本最高齢となった[21]。2015年5月15日、名古屋高裁への第9次再審請求と同日、最高裁への特別抗告を取り下げた。取り下げの理由について、弁護団は「奥西さんの病状を考え、新証拠を早期に裁判所で審理させる必要があると判断した」と説明していた。, 奥西は2015年10月4日午後0時19分、かねて患っていた肺炎のため、八王子医療刑務所で死亡した(89歳没)[1][2]。奥西の死に伴い、第9次再審請求は棄却された。, 2015年11月6日、奥西の妹が名古屋高裁へ第10次再審請求を申立[22]。2017年12月8日、名古屋高裁は再審請求を棄却した。, 事件当時の葛尾は娯楽に乏しく、総会に際して行われる宴会は数少ない楽しみの一つだった。奥西が逮捕された当初は、「犯人が特定された」という安堵により、むしろ奥西の家族をサポートしようという呼びかけが行われた。しかし、奥西が否認に転じたことを知ると、集落ぐるみで家族への迫害や差別が始まった。こうした村八分の結果、家族が葛尾を去り市内に転居すると、これを口実に共同墓地にあった奥西の家の墓は墓地隣接の畑に一基だけ追い出された。奥西へ死刑判決が下ったあとに犠牲者慰霊碑が建立された。, 葛尾は事件当時、人口100人程度の集落であった。奥西が無実であった場合、葛尾の中に真犯人がいる可能性が高いと思われたため、地域の「和」に再び波風を立てる結果になることを恐れたとの声もある。一方、小さな集落が全国区で話題になったことへの反発もあった[23]。, 『中日新聞』2015年10月5日朝刊第一社会面27面「翻弄 名張事件が問うもの(上) 奥西死刑囚死亡 獄中の恐怖 半世紀」, http://web.archive.org/web/20181210132621/http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/gogai/pdf/gogai_151004a.pdf, http://web.archive.org/web/20160317035954/http://www.asahi.com/articles/ASHB27V75HB2OIPE03G.html, http://www.47news.jp/CN/201004/CN2010040601000356.html, https://web.archive.org/web/20100408011314/http://www.asahi.com/national/update/0406/TKY201004060265.html, https://web.archive.org/web/20100409092936/http://mainichi.jp/select/today/news/20100406k0000e040053000c.html, https://web.archive.org/web/20100409181840/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010040702000058.html, https://web.archive.org/web/20100408003350/http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100406k0000e040057000c.html, http://mainichi.jp/select/news/20120531k0000m040079000c.html, 日本弁護士連合会│Japan Federation of Bar Associations:名張毒ぶどう酒事件第7次再審請求差戻し異議審決定についての会長声明, http://www.sankei.com/west/news/150109/wst1501090022-n1.html, http://www.sankei.com/west/news/150109/wst1501090022-n2.html, http://www.chunichi.co.jp/s/article/2015110690161949.html, http://www.sanspo.com/geino/news/20130216/oth13021620540014-n1.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=名張毒ぶどう酒事件&oldid=80189004, 酒席で振る舞われたぶどう酒に農薬が混入されており、それを飲んだ女性17人が集団中毒、うち5人が死亡した。, 第一審で無罪を言い渡された被告人に対し、控訴裁判所が事実調のうえ、右無罪判決を破棄し、自ら有罪の判決を言い渡すこと、およびこの場合、右控訴審判決に対し、上訴において事実誤認等を争う途が閉ざされていることは、憲法三一条ないし四〇条またはその精神に反するものではない。, 約束 〜名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯〜(東海テレビ、2012年6月30日放送), 2013年2月から再編集版が映画として公開されている。なお仲代は初日舞台挨拶にて、奥西は, ふたりの死刑囚(東海テレビ制作の映画。鎌田麗香監督作品。ナレーション:仲代達矢。2016年1月公開)- 奥西勝と袴田巌の二人を題材にしたドキュメンタリー, ドキュメンタリー劇場第11作「眠る村 〜名張毒ぶどう酒事件 57年目の真実〜」(東海テレビ、2018年4月1日放送)ナレーション:仲代達矢, 越谷仁哉『名張毒ぶどう酒事件の毒物に関しての考察』Science Research、2007年3月、, 持統院ゆきむら『検証・名張事件 無実への最終階段』 青山ライフ出版 2015年2月.

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