3点差で負けている状況で満塁ホームランを打ってサヨナラ勝ちすることを「お釣り無し」と表現する(プロ野球では3例しか存在しない)。 満塁&サヨナラ本塁打ランキング 満塁ホームランとサヨナラホームランの通算ランキング表を作ってみました。(記録は2019年終了時点) 現役選手の記録はオレンジ色で表示しています。(年間3本以上は青色) サヨナラ本塁打はこちら 順位スレ、暖簾スレなど楽しめる話題をまとめ中

!」 特に代打逆転満塁ホームランで優勝決定という記録はメジャーリーグにもなく、現在のところ世界のプロリーグでは唯一の記録である

なんJまとめのネタを見るのが初めての方でも楽しめるような内容を心がけています 帽子を投げ捨てた北川!中村走った!北川を出迎えた! (※)優勝決定戦の直前の試合で、9回裏北川の先頭打者ホームランを口火に逆転サヨナラ勝ちしている。 代打サヨナラ逆転満塁の6人目で、お釣り無しとしては2人目、リーグ優勝決定は初となる大記録である(現在でも達成不可能ではないが、CS導入もあって、北川の時より価値は薄いとされる)。 代打サヨナラ満塁弾打ったことない球団にリーグ優勝する資格なんてない 4 名無しさん 2019年05月30日 08:40 id:ywTAva.U0 さよなら満塁でも12球団は難しそう

↓以下、ホームランのシーンの実況(9:04から) ホームラン!」というニュアンスに近い)という表現が使われるため、それと同じ意味合いで使われることがほとんどである。, 守り抜いて勝利するのが普通である競技で唯一の、攻撃で試合を締められるパターンなので、最も劇的な幕切れとなる。それ故、試合終了の瞬間、勝った側のチームは全員がダグアウトから飛び出し、決勝打点を挙げた仲間を手荒く祝福する。特に、本塁打だった場合には、ホームプレートを囲むように待ち構えられ、生還の瞬間に集中砲火を浴びることになる。日本のプロ野球の試合では、サヨナラ打を決めた選手に対しチームメイトが、以前は袋叩き(ヘルメット越しに頭を叩く)をするのが恒例であったが、現在はペットボトルに入ったボトルドウォーターをシャワーのように浴びせるのが恒例となっている[4]。メジャーリーグではスポーツドリンクやシャンプーをかけて祝福される。, 通常の試合は、敗戦チームの攻撃終了で試合終了となるが、サヨナラゲームでは勝利チームの得点で『サヨナラ』となるため、劇的な印象を与える。そのため、サヨナラゲームに関しては、様々な逸話が残されている。, 1938年10月24日、後楽園球場での東京セネタース対ライオン軍戦において、初回ライオン先頭打者坪内道則が東京セネターズ先発金子裕から初球本塁打を放つ。試合はその裏東京セネターズが1点を返し、そのまま同点で迎えた延長10回裏、東京セネターズの代打浅岡三郎がライオン菊矢吉男からサヨナラ本塁打を放ち4対1で東京セネターズが勝利する。先頭打者初球本塁打で始まり、サヨナラ本塁打で終わった最初の事例となった[注 5][5]。, 川崎徳次は宇佐美徹也の「プロ野球記録大鑑」でも珍記録に度々縁がある選手として紹介されており、サヨナラゲームにおいても勝った方と負けた方で記録を作っている。, 1942年10月24日の阪神軍対南海軍戦において、1対1で迎えた11回裏満塁の場面で、投手の川崎が三輪裕章に投じた4球目の際、三塁走者の御園生崇男が本盗を決めて、サヨナラ勝利しているが、投手によるサヨナラ本盗は日本プロ野球史上初となった[6]。, 巨人に移籍しての1948年5月29日、中日ドラゴンズ対読売ジャイアンツ戦において12対11で巨人リードの9回裏、無死一塁の場面で巨人はリリーフに川崎徳次を送るが、その初球を中日の杉山悟が2ラン本塁打を放ち、サヨナラ勝ち。川崎はこの試合の敗戦投手となり、日本プロ野球史上初となる「1球で敗戦」を記録している[6]。, 西鉄に移籍しての、1950年8月26日の西鉄ライオンズ対大映スターズでは林義一との投げ合いとなり、同点で迎えた9回裏1死から川崎が二塁打で出塁し、内野ゴロの間に三塁まで進み二死三塁とすると、宮崎要への林の初球の際に本盗でサヨナラ勝利。日本プロ野球史上2度目の投手によるサヨナラ本盗を決めており、8年前とは逆となった。なお、同年11月20日の対近鉄パールス戦の11回表に三塁走者の川崎は本盗を試みるが、これには失敗し、同イニングの裏に近鉄の坂本直留にプロ入り第1号が満塁本塁打の日本プロ野球史上最高齢となるサヨナラ満塁本塁打を打たれて川崎が敗戦投手になっている[6]。, 1954年4月27日、この日まで11連敗の洋松ロビンスは西京極球場で対巨人戦を行うが、6回まで4点リードしていたものの、7、8回に4点ずつ取られて、4点差で迎えた9回裏2死走者無しから松岡一郎の当たりもショートへのゴロで12連敗達成かと思われたが、これを広岡達郎が悪送球した事から事態が一転。広岡の再度のエラーで1点が入った後、さらに攻め立て満塁として、青田昇が笠原正行からセンターへ逆転サヨナラ満塁本塁打を放ち、洋松が連敗を止める奇跡的なサヨナラ勝利をおさめる。, サヨナラ打の青田は日本プロ野球初となる、二度目のサヨナラ満塁本塁打を記録。またこの一打で、当時劇団「新日劇」が30周年記念行事でつけていた1万円の賞金と、雑誌「ホームラン」による賞金3000円に、ホームラン賞の200円を合わせて13200円の賞金を手にしている。青田の話ではこの時のサラリーは7500円で、それを上回る賞金を一打で獲得した事で話題となった。, 1959年6月25日に行われた巨人対阪神戦(後楽園球場)は、日本プロ野球史上唯一の天覧試合である[注 6]。9回裏、巨人の長嶋茂雄が阪神の村山実から左翼ポール際に入るサヨナラ本塁打を放った。村山は生涯あれはファウルだったと言い続けたが当時左翼に就いていた三宅秀史もアピールはしなかった[7]。スコアは5x対4。, 1961年、近鉄バファローのルーキーの徳久利明は4月23日の対阪急ブレーブス戦ダブルヘッダーにおいて、第1試合9回1死一塁の場面で初球を中田昌宏に左越2ラン本塁打を打たれて3対2で敗戦投手となっている。続く第2試合においても、5対5で迎えた延長11回裏にリリーフで登板、前試合でサヨナラ本塁打を打たれた中田に三塁打を打たれ、続く代打岡島博治の場面で徳久の投じた球を捕手がパスボールし、徳久は二試合続けてサヨナラ負けで敗戦投手となっている。, この年徳久は15勝を挙げ新人王になっているが、リーグ最多の24敗も喫している[注 7]。この中には3度のサヨナラ勝ちがあるが、8度に渡るサヨナラ負けもあり、うち5度のサヨナラ本塁打による敗戦は前年までの2度を更新する日本プロ野球記録となった[注 8]。, 1973年8月30日に行われた阪神対中日戦(阪神甲子園球場)で、阪神の江夏豊は中日の松本幸行と11回まで投げ合い、11回裏に松本から右翼ラッキーゾーンにサヨナラ本塁打を自ら放つという劇的な形で、日本プロ野球史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成した。, 1978年、クラウンライターライオンズに在籍していた長谷川一夫はこの年16年目の現役生活で、前年までに689試合を野手として出場していたが、7月11日の対日本ハムファイターズ戦、同点で迎えた9回2死一、三塁の場面で急遽登板、これがプロ入り初登板となったが、ジーン・ロックレアへの初球を中前安打され、サヨナラ負けとなった[注 9]。, 1952年8月9日の巨人対国鉄スワローズ戦(札幌市円山球場)で、同点で迎えた延長13回裏に巨人は一死一・三塁のチャンスを迎え、代打に藤本英雄を送った。国鉄ベンチはマウンドの金田正一に敬遠を指示したが、金田が速い球を投げたため捕手が取ることができず、三塁走者が生還して国鉄は5x-4でサヨナラ負けとなった。, それから30年後の1982年4月3日の横浜大洋ホエールズ対阪神戦(横浜スタジアム)で、8回まで大洋打線を0点に抑えていた阪神の小林繁は9回裏、2 - 2の同点にされた直後に大洋・高木由一を敬遠し、満塁にして次の打者で勝負しようとした。ところが小林は高木への3球目を暴投してしまったため、その間に三塁走者の生還を許し、阪神はサヨナラ負け(3x - 2)を喫し、2例目となった。, 1986年10月4日の大洋対ヤクルト戦で、1対1で迎えた9回裏にヤクルトは二死一・三塁のチャンスを迎え、一塁代走に柳田浩一を送った。柳田が二盗を企図しスタートを切ったところ、大洋の市川和正捕手の二塁への送球が柳田の尻に直撃。ボールが転がった隙をついて三塁走者の渋井敬一が生還しヤクルトは2x-1でサヨナラ勝ち。このプレーが渋井による本盗として記録された。, 1991年6月5日、横浜大洋ホエールズ対広島東洋カープ戦での出来事。また、ほぼ同一の出来事が2015年5月4日の広島東洋カープ対読売ジャイアンツ戦でも起こった。, 1991年6月18日の中日対大洋戦(ナゴヤ球場)で中日・彦野利勝が大洋・盛田幸妃からサヨナラ本塁打を放ったが、一塁付近で右膝靭帯を負傷し、走塁を続けられなくなった。彦野はそのまま退場したため、山口幸司が代走として起用され、生還した。本塁打を打った打者に代走が出されたのはこれが2例目だが[注 10]、それがサヨナラ本塁打であったのは日本プロ野球史上唯一の例(2019年シーズン終了時点)である。, 1993年6月5日の藤井寺球場における近鉄バファローズ対福岡ダイエーホークス戦で、9回表終了時に2-8と6点差を付けられた近鉄だったが、9回裏に猛攻、7点を奪い逆転サヨナラ勝ちした。この9回裏に6点差を逆転したのは、現時点で日本プロ野球史上最大得点差の逆転サヨナラである。ダイエーは16安打で8得点したが残塁も9と多く、これが響いた。決勝点は大野久の三塁への返球が悪送球になった失策によるものである。, 2004年9月20日、北海道日本ハムファイターズ対福岡ダイエーホークス戦(札幌ドーム)の9回裏、日本ハムは3点を入れて12 - 12の同点とし、なお二死満塁で日本ハム・SHINJO(新庄剛志)の放った打球は左翼席に飛びこんだ。, この場面で一塁走者だった田中幸雄は、歓喜のあまり新庄を二塁ベース付近で迎え、新庄と抱き合ってその場で一回転した。だがこれによって新庄は前位の走者(田中幸)を追い越したことになってしまい、新庄にアウトが宣告され本塁打は取り消された。新庄は一塁に到達していたため記録上は安打となり、新庄のアウトより先に三塁走者・奈良原浩が生還していたのでサヨナラ勝ちは成立したが、新庄のアウトは第3アウトであるから、奈良原がこのアウトよりも前に本塁に到達していなければ、サヨナラ勝ちは成立しないところであった。スコアは13x - 12。幻の本塁打一覧も参照。, 2004年9月24日、オリックス・ブルーウェーブとの球団合併が決まり、この日の試合が本拠地大阪ドームにおいての最終試合となった大阪近鉄バファローズは西武ライオンズと対戦。試合は同点で迎えた延長10回裏1死二塁の場面で星野おさむが森慎二からライト前にタイムリーを放ち、近鉄球団最後の本拠地主催試合でサヨナラ勝ちをおさめている。9月27日に行われた、球団最終試合の対オリックス戦では負けているので、球団として最後の公式戦勝利ともなった。, 2006年9月7日、横浜ベイスターズ対広島戦(下関球場)。5 - 5の同点のまま迎えた10回裏二死満塁で、横浜の佐伯貴弘は広島の永川勝浩が投じた4球目を打ったが、ファウルボールになった。このとき広島の捕手の石原慶幸のミットに佐伯のバットが当たっており、打撃妨害が認められて佐伯に一塁が与えられた。押し出された三塁走者が生還し横浜のサヨナラ勝ちとなった。, 2008年6月6日の巨人対ロッテ戦(東京ドーム)。巨人の加治前竜一は試合の途中から守備で出場しており、3対 3の同点で迎えた延長10回裏一死の場面にプロ初打席が回ってきた。ロッテの投手・川崎雄介が投じた3球目を打った加治前の打球は、右翼スタンドへ飛び込むサヨナラ本塁打となった。プロ初打席で本塁打を放ったのは加治前で47人目だが、それがサヨナラ本塁打だったのは日本プロ野球史上初。, 2016年6月14日の広島対西武戦(マツダスタジアム)では、赤松真人の中前打で本塁を狙った広島・菊池涼介と西武の捕手上本達之のクロスプレーが、この年導入されたコリジョンルールの適用で判定が覆され(アウトではなくセーフ)、赤松のサヨナラ適時打となる[11][12]。, 2017年8月22日、DeNA対広島(横浜スタジアム)の対戦カードの初戦であった。DeNAは3点ビハインドで迎えた9回裏、3番・筒香嘉智が2ランホームランを放ち、続く4番・ロペスがソロホームランで同点とする。そして5番・宮﨑敏郎が打った打球もスタンドに吸い込まれ、日本プロ野球史上初の「3者連続ホームランによるサヨナラ勝利」を達成した。DeNAはこの試合の翌日(8月23日)と翌々日(8月24日)も、それぞれ梶谷隆幸、倉本寿彦の適時打でサヨナラ勝ちしており、球団としては1960年(大洋ホエールズ時代)以来の3試合連続のサヨナラ勝利を果たし、また同一カード3試合全てにおいてサヨナラゲームを演じることとなった。, 日本シリーズにおいて、サヨナラゲームでの日本一決定は以下の4例がある(2019年度終了時点)。, 日本プロ野球における『代打逆転サヨナラ満塁本塁打』は2019年シーズン終了までに8例存在する。, 1956年3月25日、読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ戦(後楽園)ダブルヘッダー第2試合での出来事。, 1956年6月24日の阪神タイガース対広島カープ戦で、1対0で迎えた9回裏二死満塁、阪神の選手兼任監督だった藤村富美男が自ら「代打はこのワシや」と言って打席に立ち、代打逆転サヨナラ満塁本塁打を決めた。これは藤村の現役最後の本塁打でもある。, 1966年8月2日の中日ドラゴンズ対読売ジャイアンツ戦(中日球場)において、中日の5対3のビハインドで迎えた9回二死満塁の場面で、三番広野が巨人堀内恒夫からセンタースコアボードに飛び込む逆転サヨナラ満塁本塁打を放っている。広野はその後この時の対戦相手の巨人に移籍しているが、1971年5月20日の対ヤクルトアトムズ戦においても、日本プロ野球史上3人目の代打逆転サヨナラ満塁本塁打を記録している[14]。, 1984年、近鉄バファローズは6月9日の対南海ホークス戦において加藤英司が逆転サヨナラ満塁本塁打を放ち勝利しているが、翌日の試合を雨天中止として、続く6月11日の同カードにおいても、近鉄は2対1のビハインドで迎えた9回裏二死満塁の場面で、代打柳原隆弘が南海の山内和宏からパ・リーグ初となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放ち、2試合続けて逆転サヨナラ満塁本塁打による勝利となった[15], 1988年6月18日、阪急ブレーブズの藤田浩雅は対南海ホークス戦(西宮)において、9回裏無死満塁の場面で吉田豊彦から日本プロ野球史上5人目となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を記録[16][17]。同日に行われたヤクルトスワローズ対広島東洋カープ戦において、ダグ・デシンセイが同月15日の対巨人戦に続き、日本プロ野球史上5人目となる2試合連続サヨナラ本塁打を記録している[18], 2001年9月26日、大阪近鉄バファローズ対オリックスブルーウェーブ戦(大阪ドーム)での出来事。形容詞(修飾語)の付かない、最も長い肩書の付く本塁打としても有名。, 前述の北川の一打から4日後の2001年9月30日、オリックス対千葉ロッテマリーンズ戦(グリーンスタジアム神戸)でオリックスの藤井康雄が9回裏にロッテの小林雅英から放った本塁打は、「3点差」、「二死」、「代打」の3つを全て満たした逆転サヨナラ満塁本塁打であり、これは日本プロ野球史上唯一の記録(2019年シーズン終了現在)である。しかし、藤井の記録は、すでに優勝チーム決定後の消化試合であり、さらに同日は読売ジャイアンツの2001年本拠地最終戦であり長嶋茂雄の退任セレモニーと斎藤雅樹・槙原寛己・村田真一の引退セレモニーが大きく報道され、また、高橋尚子がベルリンマラソンで当時の世界最高記録を達成したこともあったため、藤井のこの一打はメディアでほとんど扱われなかった。, 1942年に開催された昭和十七年度全国男子中等学校体育大会野球部決勝戦、平安中対徳島商業において、7対6と平安中リードで迎えた延長11回裏、平安中の富樫淳は連投の疲れと肩痛で制球を乱し、2死1塁から4者連続四球で2点を与え、徳島商業が8対7でサヨナラ勝利を収め優勝を決めている。, ただしこの大会は戦時中に行われ全国高等学校野球選手権大会の公式記録として認められていない大会(幻の甲子園)で、公式に行われた高校野球全国大会ではまだ決勝戦でサヨナラ押し出し四死球による決着はない。, 1960年に開催された第32回選抜高等学校野球大会決勝戦、高松商対米子東において、1対1で迎えた9回裏、高松商の主将山口富士雄が米子東の宮本洋二郎から春夏通じて決勝戦では初となるサヨナラ本塁打を放ち、優勝を決めている。, 1977年に開催された第59回全国高等学校野球選手権大会決勝戦、東洋大姫路対東邦高校で、これまた1-1で迎えた延長10回裏、東洋大姫路高校の主将安井浩二が東邦高校の坂本佳一から春夏史上2本目、夏の甲子園史上初で史上唯一のサヨナラ本塁打を放ち、優勝を決めている。, ボークによる進塁でサヨナラゲームとなる試合はいくつかの例があり、特にアマチュア野球において多くの事例がある。, 1998年に開催された第80回全国高等学校野球選手権大会の2回戦、豊田大谷高校対宇部商業高校戦(8月16日)は、サヨナラボークで試合が決着した。延長15回裏、無死満塁からの4球目を投じようとした宇部商業高校の2年生エース・藤田修平(福岡大学を経て現在は彦根製錬軟式野球部でスタッフ)は、捕手・上本達之(後に埼玉西武ライオンズ)からの意外なサインに驚き、無意識に投球動作を止めてしまう。これを見逃さなかった球審林はボークの判定を下し、豊田大谷高校の三塁走者が生還してサヨナラ勝ち。スコアは3x - 2。敗れた宇部商業の藤田はショックを隠し切れないまま、ボークの瞬間についてのインタビューには「何も覚えていません、分かりません……」と記者団に答えるのが精一杯であった。, 2015年の第97回全国高等学校野球選手権大会地方大会では同じ7月14日に岩手大会と熊本大会でサヨナラボークで決着する試合があった[19][20]。, 1999年の第71回選抜高等学校野球大会1回戦で明徳義塾が滝川第二に延長10回6-5でサヨナラ勝ち。同年の第81回全国高等学校野球選手権大会で2回戦で長崎日大が明徳義塾に延長11回6-5でサヨナラ勝ち、続く3回戦で滝川第二が長崎日大に9回3-2でサヨナラ勝ちした。1999年の明徳義塾、長崎日大、滝川第二はサヨナラゲームで三すくみの勝敗になる珍しい結果になった(春夏の甲子園で三すくみは2018年の創成館、下関国際、創志学園でも記録)。, また明徳義塾は1998年の春は準々決勝でPL学園に2-3でサヨナラ負け、夏は1回戦で桐生第一に6-5でサヨナラ勝ち、準決勝で横浜に6-7でサヨナラ負けしていたため、前年春から4季連続の甲子園出場で5試合のサヨナラゲームを経験し、4季のうち3度サヨナラ負けで敗退した。また長崎日大は春も駒大高に2-3でサヨナラ負けし、1999年は春夏連続サヨナラ負けで敗退した。, 2002年7月20日の第84回全国高等学校野球選手権大分大会2回戦、緒方工業高校対中津北高校戦で、9回表に降雨が激しくなり中津北高校の投手の制球が乱れ、既に2点をリードしていた緒方工業高校は7点を追加してスコアを14 - 5とした。このまま終わるかと見られた9回裏、中津北高校は二死満塁から適時打で2点、5連続四球による押し出しで4点、遊撃手の失策で1点、そして3点適時打で計10点を奪い、9点差をひっくり返して14 - 15xで逆転サヨナラ勝利。“野球は9回2アウトからが勝負”の典型例である。, 2003年の第75回選抜高等学校野球大会に出場した花咲徳栄は初戦となる2回戦で秀岳館に延長13回4-3でサヨナラ勝ちし、続く3回戦でダルビッシュ有を擁する東北に9回10-9で2試合連続サヨナラ勝ち。準々決勝の東洋大姫路戦は延長15回引き分け再試合にもつれこみ、再試合の延長10回裏、福本真史投手の暴投により5-6でサヨナラ負けした。花咲徳栄はこの大会延長15回引き分けを挟んで3試合連続でサヨナラゲームを経験した(また延長15回引き分けを含めて4試合で3度の延長戦も経験)。, また埼玉県勢は前年の2002年の第84回全国高等学校野球選手権大会で浦和学院が2回戦で川之江に5-6でサヨナラ負けし、この第75回選抜高等学校野球大会に花咲徳栄とともに出場した浦和学院が3回戦で智辯和歌山に延長12回6-7でサヨナラ負け、第85回全国高等学校野球選手権大会では聖望学園が準々決勝で江の川に1-2でサヨナラ負けし、県勢は3季連続で4校がサヨナラ負けを喫した(花咲徳栄がサヨナラ勝ちした2試合を含めると3季で6試合のサヨナラゲームを経験)。, 2019年の第91回選抜高等学校野球大会準々決勝、明石商対智辯和歌山戦の1回裏、明石商の1番打者・来田涼斗が先頭打者本塁打を放ち同点とする。その後、両チーム点を取り合い3-3で迎えた9回裏・明石商の攻撃、この回先頭で打席に立った来田は2ボール2ストライクからの5球目を振り抜きボールはライトスタンドヘ。(最終スコア4x-3)同一選手による同一試合での先頭打者本塁打・サヨナラ本塁打同時達成は史上初。, 2019年の智辯和歌山は春夏連続出場を果たすが、春は前述の準々決勝・明石商戦でサヨナラ本塁打を浴び敗退、夏も3回戦・星稜戦で延長14回(タイブレーク)にサヨナラ本塁打を浴び敗退した。(最終スコア4x-1)春夏連続のサヨナラ敗戦は過去5回(1951年・長崎西、1987年・八戸工大一、1998年・明徳義塾、1999年・長崎日大、2018年・近江)記録されているが、春夏連続のサヨナラ被弾による敗戦はこれが史上初となった。, クリーンナップ3者連続ホームランによるサヨナラ勝利、およびこれに始まる3夜連続サヨナラゲーム, 同様の事例は、1969年5月4日の南海対阪急戦や1970年6月3日のヤクルト対広島戦などがある。, チームが日本プロ野球史上最多のシーズン103敗(36勝)を記録した年であり、他に計算出来る投手がいなかったという事情もある, https://www.nikkansports.com/baseball/news/1873754.html, http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2016/06/14/0009185909.shtml, https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/06/15/kiji/K20160615012784440.html, ロッテ 史上初2者生還逆転サヨナラ暴投…守護神・益田 痛恨ワンバン、田村捕球できず, 【8月2日】1966年(昭41) “小天狗”堀内VS広野 真夏のドラフト1期生対決, 【6月11日】1984年(昭59) 大失態“にらまれた男” 柳原隆弘 代打逆転サヨナラ満塁弾, https://web.archive.org/web/20181019164015/https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/ASH7G3521H7GUJUB005.html, https://web.archive.org/web/20181019121949/https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/ASH7G2WDDH7GTLVB001.html, ストレート(フォーシーム)/ツーシーム/ワンシーム(ゼロシーム)/シンキングファストボール, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=サヨナラゲーム&oldid=80357029, 一死一三塁で併殺崩れの間に三塁走者が生還した場合については、2アウト目が記録され「サヨナラ内野ゴロ」となりうるが、このような場面では三塁走者を生還させない(=失点を防ぐ)ことが最優先となるため、実際にはまず発生しない。, またサヨナラスクイズは極まれだが攻撃側1点ビハインドで二三塁の場面でスクイズをして同点の三塁走者生還、一塁送球打者走者アウトの間にサヨナラの二塁走者も生還(2ランスクイズ)なら可能性はある. 代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打. 大学時代にリーグ戦で首位打者を獲得するなど捕手として活躍。日米野球の主将に選ばれるなどリーダーシップも発揮した。 1994年のドラフトで阪神タイガースにドラフト2位で指名されたが、虎では結果が出ず2000年オフにトレードでバファローズに移籍する。 2001年は当時の監督だった梨田昌孝に認められ一軍に定着。 4月にはプロ入り初ホームラン、そして29歳の誕生日に初めてのサヨナラヒットを打ち、初のお立ち台で号泣。 そして9月。どん底から這い上がり新天地でチャンスを掴んだ北川にとっ … 北川のスレ立てるなら代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン動画はれよかす 29: 風吹けば名無し :2012/09/15(土) 13:42:48.03 ID:EDIHQAEa 2010に復活してたじゃん ホームラン以外のタイムリーでは、長打になってもスコアが逆転した時点で試合終了となるが(例・1-0で打った場合は2塁ランナー生還の時点で1-2で終了)、ホームランの場合は打った打者がホームインして試合終了となる(例・1-0の状況でも1-4になる)。ランニングホームランの事例はプロ野球では存在しないが、3点差以外の満塁の場面ではいずれかの塁でストップになるので、必然的に「お釣り無し代打逆転満塁サヨナラランニングホームラン」となる。 北川 博敏(きたがわ ひろとし、1972年5月27日 - )は、兵庫県伊丹市出身の元プロ野球選手(内野手、捕手)、コーチ。, 現役時代には、阪神タイガース、大阪近鉄バファローズ、オリックス・バファローズでプレー。大阪近鉄時代の2001年に、代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打を放ったことで知られる。, 2012年に現役を引退してからは、オリックスで一軍[1]・二軍打撃コーチや事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー(PM)を務めた。2017年から2019年まで東京ヤクルトスワローズの二軍打撃コーチを担当していた。2020年より阪神タイガース二軍打撃コーチを務める。, 出生から小学6年生の時まで伊丹市内で過ごした後に、中学1年生から埼玉県志木市へ転居。当初は父親のみ単身赴任するつもりだったが、北川がそれを嫌い号泣しながら引き留めたために一家揃って埼玉に引っ越した[2]。, 埼玉県立大宮東高等学校では3年時に主将を務め、夏の埼玉大会決勝戦では本塁打を放つなど、同校初となる全国選手権出場に貢献。どこのポジションでも守り、宗像宣弘監督に「こんなに助かる選手はいない」と重宝された[2]。, 卒業後、東都大学野球連盟所属の日本大学に進学し、一学年下の高根澤力と正捕手のポジションを争う。捕手としてレギュラーに定着した3年の春季リーグ戦で打率.471の好成績を残し首位打者を獲得、ベストナインにも選ばれ、同年の日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。4年時には主将を務め、日米大学野球日本代表に再選。リーグ通算75試合出場、244打数66安打、打率.270、4本塁打、33打点。, 1994年度ドラフト会議にて阪神タイガースから2位指名を受け入団(逆指名)。背番号は9となった。, 1年目のジュニアオールスターでMVPを受賞するなど、打力のある捕手として期待されたが、チームには関川浩一・矢野輝弘などが活躍しており、セールスポイントの打撃も一軍では結果を出せなかった。2000年には監督野村克也の息子・カツノリが加入したこともあり、出場機会に恵まれず7打数無安打に終わる。オフに湯舟敏郎・山崎一玄と共に、酒井弘樹・面出哲志・平下晃司との3対3のトレードで大阪近鉄バファローズへ移籍。背番号は46となった。, 野村は、後に出した著書の一冊である「ああ、阪神タイガース」に、当時の阪神の中で定詰雅彦と北川は捕手としては論外であったと書いており、両者とも野村の時代は出場試合が少なく途中でチームを去っており、野村からの評価はかなり低かった[3][4][5]。一方で、二軍監督時代からウェスタン・リーグで対戦していた近鉄監督の梨田昌孝は、北川のバッティングを高く評価しており、近鉄編成に強く訴えて獲得に漕ぎ着けたという[6]。, 2001年シーズンは、この年の1月4日に藤井寺球場で自主トレを開始。北川も「こんなにバットを振ったことはないですね」とコメントするほど練習した。梨田に認められて一軍に定着し、4月28日にプロ初本塁打を記録した。5月27日は北川の29歳の誕生日だったが、生まれて初めてサヨナラ安打を放ち、さらにお立ち台で涙を流した。北川はその後2週間後にもサヨナラ打を放ち、さらに9月24日の対西武戦では代打として出場、松坂大輔から本塁打を放ち勝利に貢献している[7]。これでチームは優勝へのマジックナンバーを1とした。そして9月26日のオリックス戦で守護神・大久保勝信から代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放ち、チーム12年ぶりのリーグ優勝を決めた(#代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打も参照)。ヤクルトとの日本シリーズでは1勝4敗に終わり、日本一を逃したものの全試合に出場して14打数7安打、打率.500の好成績を残した。, 2002年シーズンはオープン戦で負傷し、43試合・打率.266・1本塁打・8打点と精彩を欠いたが、2003年シーズンは、5月25日の試合で不振の中村紀洋に代わって自身初の4番に座るなどして打率.309、13本塁打、50打点の成績を残した。, 2004年シーズンは、打撃を活かすため内野手へ転向。開幕前に吉岡雄二が負傷したこともあって開幕スターティングメンバーに名を連ね、この年もアテネ五輪に出場した中村の代わりに4番に座っている[8]。この年、在籍する近鉄とオリックスとの球団合併問題が浮上。9月のストライキのあった2試合を除く133試合にフル出場、打率.303・20本塁打・88打点の自己最高成績を収めた[注 1]。シーズン最終戦だった9月27日の対オリックス戦では4回表に具臺晟からソロ本塁打を放ち、これが大阪近鉄バファローズ最後の本塁打・打点となった。北川もシーズン終了後、大阪近鉄の合併消滅に伴い発足した新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスとの選手分配ドラフトを経てオリックスに所属することとなり、背番号も23となった。, 2005年シーズンは、5番・一塁手として開幕スタメンに名を連ね、第2戦の対西武戦では7回表にオリックス・バファローズ第1号本塁打となる3ラン本塁打を長田秀一郎から放った。チームの主軸・ムードメーカーとしての期待に応え、成績は前年に比べて打率こそ落ち込んだものの、チームトップの打点をマークするなど、主軸としての活躍を見せた。, 2006年シーズンも開幕から中軸打者として活躍したが、シーズン中盤の試合中にダイビングキャッチを試みた際に、右肩を損傷。右肩関節唇損傷で選手生命を左右するほどの重傷と判明するが、8月13日のソフトバンク戦まで強行出場した。その後、一軍登録抹消されて同月17日に手術を受け、残りの試合は欠場した。2007年シーズンは、選手会長に就任し、故障も癒えて引き続き主軸として5番を任された。チームは3年ぶりの最下位と低迷したものの、9本塁打を放ち、右肩の故障からの復活を果たした。, 2008年シーズンは、春季キャンプ中に肉離れをおこし、開幕二軍スタートとなった。4月29日の楽天戦より一軍に合流。グレグ・ラロッカの離脱に伴い、三塁手で起用されることとなった[注 2]。5月16日の対ロッテ戦では、渡辺俊介から2打席連続本塁打を放ち、自己最多の1試合6打点を記録した。しかし、夏場以降は調子を落とし、復帰直後は5番だった打順も終盤は6・7番あたりに下げられるケースが多くなる。得点圏打率も.244と伸び悩み、規定打席にも2年ぶりに到達しないなど、自身にとって不本意なシーズンとなった。一方で、2005年以来の2桁本塁打を放ち、2年連続で犠牲フライ数がリーグトップを記録した。, 2009年シーズンは、ホセ・フェルナンデスの加入、ラロッカの復調により前年より更にスタメン出場が困難になった。主に右の代打を務めつつも、外国人4人が次々に戦線離脱したため、シーズン最後までスタメンに名を連ねた。しかし、打率以外のほとんどの面で前年の成績を下回り、本塁打は2本に終わった。, 2010年シーズンは、開幕戦を4番DHのスタメン出場で迎えた。本職である一塁手はアレックス・カブレラやT-岡田に奪われ、DHでの出場が多かったが、打撃ではハイアベレージを記録。6月2日の中日戦では、7点ビハインドの8回裏に3点返したあとの無死満塁の打席で、高橋聡文から同点満塁本塁打を放ち、チームの逆転サヨナラ勝ちに貢献した。その後も主力打者として活躍し続けたが、8月13日から登録抹消はされなかったものの10試合を欠場した。これは、7月14日のロッテ戦で左脛に自打球を当てた影響で、蜂窩(ほうか)織炎による発熱を発症したためであった。復帰後は、9月に100本塁打、1000本安打と節目の記録を次々と達成した。最終的には119試合に出場して打率.306、12本塁打61打点の成績を収めた。, 2011年シーズンは、キャンプ中に左腓骨骨折と肉離れを併発する。その後震災の影響で開幕が遅れたこともあり、開幕戦の復帰には間に合ったものの、完治していない状態で強行出場することとなる。主に5番指名打者・代打で出場し、6月12日の巨人戦では8回裏に澤村拓一から決勝2ラン本塁打を放つ活躍も見せた。しかし、6月26日にロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で7回表に左翼線に安打を放ったものの、二塁への走塁中に左足を負傷したため、途中交代後にベンチ裏で応急処置を施された上で試合後に帰阪した[10]。診断の結果、全治6ヶ月のアキレス腱断裂の大怪我であったため翌日縫合手術が行われた[11][12]。この結果、残りシーズンを棒に振った。, 2012年シーズンも開幕一軍入りし、6月5日のヤクルト戦(京セラドーム)で8回裏に押本健彦からアキレス腱断裂後初の本塁打を放つ[13][14]。試合後のヒーローインタビューは「2対0からだったから」と辞退し[13]、報道陣が集まった事に対しては「まるで引退する時みたい。まだやめませんよ」とコメントしたが[14]、結果としてこれが現役最後の本塁打となった。7月16日に登録抹消され、この時「もう潮時かな」という気持ちになった事を引退試合後の会見時に述べている[15]。10月3日、現役引退を発表し[16]、10月7日の本拠地最終戦の対西武戦(京セラドーム)を引退試合として5番・一塁として先発出場し、5回裏二死二塁の場面でレフトオーバータイムリー二塁打を放った[17]。, 2012年11月4日に、オリックスの二軍打撃コーチへ就任することが球団から発表[18]。2014年のシーズン終了まで務めた。, 2014年11月1日付で、オリックスの事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー(PM)に転身。自身初のフロント業務で、少年野球の指導や、新規ファンの開拓に向けたPR、京セラドーム大阪内の有料見学ツアー(ドームツアー)のガイドなどに携わっていた。球団では、北川のPM就任を機に、PMとしての北川の公式ブログ「PEI's TIME」を公式サイト内に開設。2015年のプロ野球シーズン中には、J SPORTSの球団主管試合中継や、東日本放送制作のオリックス戦中継で随時解説を担当した。同年4月からTwellVで放送を開始した球団情報番組「オリックス日和」では、元BsGirlsリーダーでキッズチアインストラクターのKYOKOと共に、MCを務めていた。, 2015年10月14日に、オリックスの一軍打撃コーチへ就任することが球団から発表[1]。自身2年振りの現場復帰を果たしたが、翌2016年3月までは、『オリックス日和』のMCも続けていた。しかし、同年のチーム打率・得点がいずれもリーグ最下位に終わったことから[要出典]、10月2日付でコーチ職の退任と退団が発表された[19]。, 2017年シーズンから2019年シーズンまで、ヤクルトで二軍打撃コーチを担当。二軍の再建を託されたほか[20]、2018年に九州学院高等学校から入団した村上宗隆をチームの日本人主砲として育てた[21]。その手腕を買われて、2020年シーズンからは、阪神の二軍打撃コーチに招聘されている[21]。阪神には現役選手時代以来19年振りの復帰で、背番号は80[22][23]。, バントは高校時代に猛練習をしたことから自信を持っており、実際に試合でも決めている[24]。, 元々のポジションである捕手は内野手転向後は守る機会が減った。ただし2004年に捕手を使い果たした試合で梨田昌孝が「延長戦となったら北川を捕手で使うつもりだった。久々に北川の捕手が見られると思ったのに(同点に追い付けず敗れて)残念」と語っている[25]。, 常に笑顔を絶やさず阪神時代からスマイリーの愛称を持ち[23]、顔が似ていることからアンパンマンとも言われている[26]。また自身のヒッティングマーチにもあるように近鉄時代の優勝を決めた代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打のインパクトの強さから「奇跡を呼び込む男」と呼ばれていた(具体的にはヒッティングマーチの歌詞がこの一打により、翌2002年から上記のフレーズが入ったものに変更になった。結果的に一振りで歌詞が変わってしまうという極めて稀な事が起こっている)。, 近鉄在籍時の2003年から兵庫県伊丹市出身のスポーツ選手で結成されたNPO法人「伊丹アスリートクラブ」の理事としても活動[27]。オフシーズンには市内でイベントを開いている。オリックス時代にはシーズン中に「北川ホームラン基金」(本拠地への招待企画)を実施していた。, ひょうきんな性格で知られ近鉄時代の2003年から現役を引退するまで、「逆転イッパツマン」(タイムボカンシリーズ)のオープニングテーマ曲を本拠地でのバッティングテーマ曲に用いていた(球団合併後の2009年以降はチャンス時のみ)。2002年は「KC&ザ・サンシャイン・バンド」の「That's the way (I Like It) 」だった。, 近鉄・オリックス在籍時に「きたがわびっクリあんぱん」と「キタガワビッくりームパン」を球団が発売している[28]。, 好きなアーティストはスピッツで、オリックス移籍後の2009年から現役引退までスピッツの楽曲をバッティングテーマ曲に用いていた。またライブにも度々訪れている。メンバーの草野マサムネとは交流も深くブログにも登場している。, 2001年9月26日、近鉄は本拠地・大阪ドームで、同年度最終戦となる対オリックス・ブルーウェーブ戦を迎えた。近鉄は1回に先制したが、先発のショーン・バーグマンが5回までに吉岡雄二の2失策もあり4失点する。7回に川口憲史の本塁打で反撃するも、9回表には岡本晃が相川良太に本塁打を打たれ、9回表終了時点でのスコアは2対5と、3点リードされていた。, オリックスは8回途中から守護神・大久保勝信を送る。9回裏、近鉄は先頭の6番吉岡が出塁、続く7番川口が二塁打、8番ショーン・ギルバートのところで代打の益田大介が四球を選んで無死満塁とした。ここで最初から監督の梨田は「アイツしかいない。今年のアイツは何かをやる」として[29]、この試合3打席凡退だった古久保健二の代打として北川を打席に送る。北川は後にこの時の状況を「益田さんが四球を選んで満塁となって困ったなぁと思いました」とコメント。理由として「塁が詰まると引っかけてゲッツーが多いから」とした。真弓明信打撃コーチからは「思いきりいけばいい」と言われ、北川は「これで気持ちは楽になった」としている。, 北川は、満塁となった状況、さらには元々7回の古久保の打順で代打に送られる予定が川口の本塁打で変更になったというタイミングもあり、「初球のど真ん中の直球にまったく動けなかった」という。そしてカウント0ボール2ストライクからの3球目を見送ったところで「球の見極めはできていると確信し、これで地に足がつきましたね」とコメントしている[30]。, カウント1ボール2ストライクとなった4球目。大久保が「真っ直ぐ狙いのような気がした。スライダーで打ち取ろうと思った」として投じたスライダーが真ん中に入り[29]、北川は「(大久保の手から)球が離れた瞬間、これはと感じて素直に振りぬいた」「打った瞬間、野手の間は抜けると思ったが、本塁打にはなるとは思ってなかった」とした打球はバックスクリーン左横に飛びこむ、日米プロ野球初となる「釣銭無し[注 3]」+「優勝決定」の「代打逆転サヨナラ満塁本塁打」になった。優勝決定に限定せず、「釣銭無しの代打逆転サヨナラ満塁本塁打」としても45年ぶり2人目。「代打逆転サヨナラ満塁本塁打」としては6人目、近鉄では1984年の柳原隆弘以来2人目[31]。最終的なスコアは6対5、チームのパ・リーグ優勝が決定した[32]。, 打った側と打たれた側のそれぞれの監督である梨田と仰木彬はその年のオフ、両チームの監督を務めた経験もある西本幸雄を交えて対談しており、この時の状況について、仰木は「オリックスの勝ちペースで今日は梨田の胴上げを見ずに済む」と考えていたが、「8回から雲行きがおかしくなった」として、「9回に満塁になった時はもう完全に予測できるくらい(笑)」とコメントしている。また試合前には「おめでとう、胴上げされても泣くなよ」と梨田に言っており、梨田も「今日は勝たせてくれるのかな」と思ったとしているが、仰木は「心情的にはあったかもしれないけど、最後は本気になって勝ちにいった」とコメントしている。一方の梨田は「『北川にホームランが出たら代打逆転サヨナラ満塁本塁打で優勝だな』という気持ちがほんのちょっとあった」としつつ、「大部分は『頼むからダブルプレーだけは勘弁してくれ』という気持ちだった」としている。西本はこの試合をスタンドで仕事として観戦しており「あんな絵に描いたような奇跡は起こるわけがないと思ってた」とコメント、北川の起用については「何度かサヨナラ打を打っているラッキーボーイ的存在で、いい人選だった」としている[33]。, 2010年に日本野球機構が、「最高の試合」「名場面・名勝負」を選んだときにいずれでも、この時の試合が「総合」2位などに選ばれた。ここで、北川の一打は「“特盛”の一打」と形容されている。打った北川のみならず、打たれた大久保や、北川を代打に出された古久保もこの場面に投票している[34]。, この節のここまでの出典は特記ない場合、日刊スポーツ出版社発行『サヨナラ近鉄バファローズ』P50-53、及び、ベースボール・マガジン社発行『さらば大阪近鉄バファローズ』『週刊ベースボール別冊』2004年冬季号)P32-33とする, https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/15/kiji/K20151015011325490.html, https://www.sanspo.com/baseball/news/20191026/tig19102605020010-n1.html, “阪神・北川コーチ、「マスコミ戦略」でチームを変える? 現役時代「因縁」と言われた”ノムさんの息子”とは意外な関係性”, http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190509-110, https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/27/kiji/K20110627001096490.html, https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/28/kiji/K20110628001102940.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20110628-796619.html, https://web.archive.org/web/20160304113319/http://www.daily.co.jp/baseball/2012/06/06/0005113284.shtml, https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/06/kiji/K20120606003404460.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121007-1029287.html, https://www.sanspo.com/baseball/news/20161028/swa16102805030002-n1.html, https://www.sanspo.com/baseball/news/20191017/tig19101705030002-n1.html, “阪神OBの北川氏が20年ぶりにタテジマ復帰 打撃コーチ就任会見で「プロ1年目と同じユニホームが着れる喜び」”, https://www.sanspo.com/baseball/news/20191025/tig19102514320011-n1.html, https://www.daily.co.jp/tigers/2019/10/25/0012819487.shtml, https://web.archive.org/web/20111123153426/http://www.daily.co.jp/baseball/2011/04/25/0003997201.shtml, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201910160000953.html, 【9月26日】2001年(平13) 近鉄最後のV 決まり手は代打逆転サヨナラ満塁弾, https://www.news-postseven.com/archives/20131001_214357.html?DETAIL, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=北川博敏&oldid=79815879.

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