」を用いず「D 」という表記を採用する。 piano.aribooks.com, Nakamura Hashigo and the New Face of Kabuki in the 21st Century Vol. 紅におう 野なかの薔薇, 童は折りぬ 野なかの薔薇 Und der wilde Knabe brach Heide/荒野、原野 <シューベルト「野ばらd257」> シューベルト「野ばらd257」を知らぬ人はいない。シューベルト18歳(1815年)の作品。やはりゲーテの詩による有名な歌曲「魔王d328」とも同時期で、シューベルト初期の無名時代の作品である。 der Klugheit, Mädchen, seht 映画「未完成交響曲」は文字通りシューベルトを主人公とし「交響曲第7番 (未完成)」にスポットを当てた作品です。 シューベルト『野ばら(Heidenröslein)』の解説(ドイツ語の歌詞・対訳・解釈) 2018年7月30日 『野ばら(Heidenröslein)』 は、オーストリアの作曲家 フランツ・シューベルト (Franz Schubert/1797年-1828年)によって書かれました。 危険に出会ったら落ち着いてはいられない。 またオペラの偉大な作曲家として知られているロッシーニも絶頂期でした。 レースライン レースライン レースライン ロート, Röslein auf der Heiden. シューベルトは1815年8月19日にこの曲を作曲しました。「魔王」をつくったのと同じ、シューベルト18歳の年です。 「魔王」とこの「野ばら」は全く違った性格をもっていますね。 三節の有節形式.

詩は1799年に出版されたゲーテのものを使用しています。, シューベルトの初期の傑作として知られており、『魔王』と並んでとても有名な作品です。, ここでは『野ばら(Heidenröslein)』の歌詞と対訳を紹介したいと思います。 ドイツ歌曲「野ばら」の歌詞は、ドイツの詩人ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe/1749-1832)による1770年頃の作品。. ewig/永遠の kein/~ない Das Bächlein tückisch trübe,/狡猾にも川をかきまわして濁らせた。 旧第8番と呼ばれることもあります。, 交響曲第7番は映画「未完成交響曲」で取り扱われたことでも知られています。 Röslein wehrte sich und stach, 小さなバラは言いました「君を刺すよ、 jung/若い (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 半年以内に読んで良かった本をランキング形式でお届けします!気になった本があれば是非読んでみてください~!, 歴史的名著。読む以外に選択肢がない。人類の歴史と現在と未来を明確に示してくれる一冊。, 心の風邪と呼ばれ、社会問題ともなっているうつ病。実はうつ病は脳の栄養不足が原因ではないかというお話。人間の身体を分子レベルで分析し、うつ病の症状を持つ患者さんに不足している栄養素を摂取するよう治療したところ改善されたという内容。なぜうつ病になるのかをホルモンバランスなどとも関連して説明していて分かりやすい。, ビジネス書として有名な1冊だが、実際には普段の生活を営む上で非常に実践的で有意義な内容がまとめられている。そもそも7つの習慣が、それ以前の哲学書をすべて研究した上で、その共通項をまとめているため、それまでの数多くの実践的な思考回路を網羅している。人生の成功、あるいは幸福にかかせない原則を再認識できる人生で一度は読むべき名著。, -歌詞対訳&楽曲解説 ich/私は dass/~するために しかし 悲痛な声は彼には何も効かず 飽かずながむ Röslein sprach: ich steche dich, 's Röslein auf der Heiden; schnell/早い この訳を先ほどの対訳の続きと一緒に見て見ると、この曲が若い娘に対する注意や啓発を意味していることが分かります。鱒という若くて元気な女性が、釣り人(悪い男)につかまって吊り上げられてしまうというストーリーのようです。確かに現代でも社会にはそういったことがあるので、これは意義のある注意のように思えます。, ただ、実際にこの曲ではこの部分が省略されているので、シューベルトの「鱒(ます)」にどこまでの意味があるかは分かりません。しかし、クラシックの歌手であればこの部分があることは押さえておきたいポイントになるでしょう。, 次に、楽曲の方ですが、この曲はA-A-B-A形式で書かれていると言えます。特に重要なのはBの音楽が揺れ動く部分です。詩の中で「水が濁る」という表現のときに、ピアノの和音もそれに相応しい音で追従しています。曲全体を支配している連符は、鱒の元気で軽快な動きを表現していると考えるのが自然でしょう。, 非常に有名な1曲ですので、是非こういったところに注目しながら聴いて見るとまた違った風景が見えるかもしれません!それではまた!. <シューベルト「野ばらd257」> シューベルト「野ばらd257」を知らぬ人はいない。シューベルト18歳(1815年)の作品。やはりゲーテの詩による有名な歌曲「魔王d328」とも同時期で、シューベルト初期の無名時代の作品である。 「野ばら/シューベルト」の歌詞対訳と解説【Heidenröslein/F.Schubert】(ドイツ語/日本語) 「鱒(ます)/シューベルト」の歌詞対訳① In einem Bächlein helle/明るく澄んだ小川で、 『野ばら』歌詞と解説(作曲:フランツ・ペーター・シューベルト) 2019/4/14 音楽 Franz Peter Schubert Heidenröslein Op.3-3 D.257 『野ばら(Heidenröslein)』は、オーストリアの作曲家フランツ・シューベルト(Franz Schubert/1797年-1828年)によって書かれました。 Knabe/少年、男の子 Mit seiner Angel nicht./釣り糸にかからないと。, Doch endlich ward dem Diebe/しかし、ついにその釣り人は Seht ihr Gefahr, so eilt! 娘たちよ、見なさい。 Er macht/しびれを切らした。彼は ハルフ イーム ドッホ カイン ヴェー ウント アッハ, ※カタカナは”近い音”というだけで実際細かいところは異なります。一応単語ごとにスペースを入れてあります。, einは不定冠詞、英語のa (ドイツ語は語の性によって冠詞や形容詞の語尾が変わります。), Knab’=Knabe わらべ 音の関係でe省略 eがついているとクナーベという発音になりますが、どうしてeを省略するかは実際に詩の中でいい比べるとわかります。, Röslein Roseが薔薇で、それに縮小語尾leinがついたもの ちいさいものやかわいいものにつける。日本語で言うと薔薇ちゃんという感じ, Ein Knabe sah ein Röslein stehen. 荒野の小さなバラを Da schoß in froher Eil/元気よく喜びながら、 ザー アイン クナープ アイン レースライン シュテーン, Röslein auf der Heiden, シューベルトの死後37年も経ったころに、指揮者であるヒュッテンブレーナーの机の中から発見されました。 Sah's mit vielen Freuden. 彼は急いで走って、それを近くで見ようとしました、 クラシック音楽「名曲」の解説と名盤(Musica Classica) All Rights Reserved. du/君が ですので、ややこしいですが、「交響曲第7番 (未完成)」も「交響曲第8番 (未完成)」も同じ作品であります。 War so jung und morgenschön, war/seinの過去形 wild/野生の、乱暴な、ひどい Und eh ich es gedacht,/私が考える暇もなく、, So zuckte seine Rute,/彼の竿が引き込まれ 折られてあわれ 清らの色香

leiden/被害を受ける、苦しむ、許す、耐える. この奇跡も「未完成」の人気の高い理由の一つかもしれません。, 未完成と言われるくらいですので、作品は完成していません。 ©Copyright2020 きつねの音楽話.All Rights Reserved. Des muntern Fischleins Bade/鱒たちが元気に水浴びしているのを Morgen/朝 ウント イッヒ ヴィルス ニヒト ライデン, Und der wilde Knabe brach auf/上に Wie sich das Fischlein wand./魚が動き回るのを。, So lang dem Wasser Helle,/川の水が澄み切っている間は、

野ばら Heidenroslein op.3-3,D.257 ト長調,2/4,愛らしく,3節の有節形式 [作曲時期]1815年 [歌詞] ゲーテ シューベルト18歳の時の作品で,誰もがほとんど民謡のように親しんでいる愛すべき歌曲です。 レースライン アオフ デル ハイデン, Röslein sprach :  „ Ich steche dich, それはこの未完成の楽譜が発見されてなかったことにあります。 Knabe sprach: ich breche dich, ただシューベルトは作品の納得がいかないと完成させないまま終わらせていることがしばしばあります。 シューベルト:交響曲第7[8]番(未完成)/1966年2月録音 Lief er schnell, es nah zu sehn, ウント デル ヴィルデ クナーベ ブラッハ, ‘s Röslein auf der Heiden, Und sah's mit kaltem Blute,/そして冷たい目で見ていた、 さもないと後悔するぞ!

シューベルトとベートーヴェンにいたっては亡くなった年が1年しか変わらず、まさに同じ時代を生きた作曲家だと言えます。, ただシューベルトの作品の素晴らしさは死後に評価され、「交響曲第7番 (未完成)」が初演された1865年にはシューベルトは既に名声を得ていました。, 彼の才能と作品から比べると、評価されるのは遅すぎたのかもしれません。 シューベルトは生きている間に正式なコンサートはただの1度も開けなかったとも言われています。 (バラは)とにかく苦しまざるをえませんでした, und/そして フランツ・ペーター・シューベルト(ドイツ語: Franz Peter Schubert[1], 1797年1月31日 - 1828年11月19日)は、オーストリアの作曲家。, 後述の理由により、本稿ではシューベルトの作品番号として「D.○○」を用いず「D○○」という表記を採用する。, シューベルトはウィーン郊外のリヒテンタールで生まれた。メーレン(モラヴィア)から移住したドイツ系植民の農夫の息子である父のフランツ・テオドール(1763 - 1830)は教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツ(1756 - 1812)は結婚前ウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785 - 1844)、次男フェルディナント(1794 - 1859)、三男カール(1795 - 1855)、次いで第12子のフランツ、娘のテレジア(1801 - 1878)だった。父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。, フランツは5歳のとき、父から普通教育を受け始め、6歳のときにリヒテンタールの学校に入学した。このころ、父は末の息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。フランツは7歳ごろになると父親の手に余るほどの才能を発揮し始めたため、父はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。聖歌隊の仲間たちは、フランツの音楽的才能に一目を置いた。当時は演奏家として聴衆に注目されなければ音楽家としての成功の機会はないという時代だったため、しばしば聖歌隊の建物に隣接するピアノ倉庫にフランツを案内して、ピアノの練習を自由にできるように便宜を図ってくれた。そのおかげで、貧しい彼には触れられなかったような良質な楽器で練習、勉強をすることができた。, 1808年10月、シューベルトはコンヴィクト(ドイツ語版)(寄宿制神学校)の奨学金を得た。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属、ハイドンが聖ステファン大聖堂で得た教育とほとんど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。シューベルトを支えた友人たちの多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun、1788 - 1865)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多くの友人たちが貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙など、誠実な支持と励ましを与えた。また、このコンヴィクトでモーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。一方、才能は作曲の分野ですでに示しつつあった。1810年4月8日 - 5月1日の日付がある32ページにわたりびっしりと書かれた『4手ピアノのためのファンタジア(D1)』、続いて1811年にはツムシュテーク(1760 - 1802)が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、『五重奏序曲(D8)』『弦楽四重奏曲(D18)』『4手ピアノのためのファンタジア第2番(D9)』がある。室内楽曲が目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でカルテット演奏会が行われていたためである。これは後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものだった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残した。また野心的に力を注いだのは、1812年の母の葬儀用と言われる『キリエ(D31)』と『サルヴェ・レジーナ(D106)』(それぞれ合唱聖歌)、『木管楽器のための八重奏曲(D72)』である。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなる『カンタータ(D80)』を残した。学校生活の最後には最初の交響曲(D82)が生まれた。, 1813年の終わりにシューベルトは、変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったためコンヴィクトを去り、兵役を避けるために父の学校に教師として就職した。このころ、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。彼は2年以上この仕事に就いたが、あまり関心を持てなかったようで、その代償を別の興味で補った。サリエリから個人的な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難してシューベルトを悩ませた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。またシューベルトはグロープ一家と親密に交際しており、その家の娘テレーゼ(英語版)は歌がうまくよい友人だった。彼は時間があれば素早く大量に作曲をした。完成された最初のオペラ『悪魔の悦楽城(D84)』と、最初の『ミサ曲ヘ長調(D105)』はともに1814年に書かれ、同じ年に『弦楽四重奏曲』3曲(D46、D74、D87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲ニ長調(D82)』の第1楽章、『潜水者(D77)』や『糸を紡ぐグレートヒェン(D118)』といった傑作を含む7つの歌曲が書かれた。, 1815年には、学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。『交響曲第2番変ロ長調(D125)』が完成し、『交響曲第3番ニ長調(D200)』もそれに続いた。また、『ト長調(D167)』と『変ロ長調(D324)』の2つのミサ曲(前者は6日間で書き上げられた)、その他『ヘ長調のミサ曲』のための新しい『ドナ・ノビス(D185)』『悲しみの聖母(D383)』『サルヴ・レジナ(D379)』、オペラは『4年間の歩哨兵勤務(Der Vierjahrige Posten、D190)』『フェルナンド(D220)』『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ(D239)』[2]『アドラスト(D137)』(研究により1819年の作曲と推定)『バイデ・フロインデ・フォン・サラマンカ(サラマンカの友人たち)(D326)』(会話の部分が失われている)の5曲が作曲された。他に『弦楽四重奏ト短調(D173)』『ピアノのための4つのソナタ(D157、D279、D459)』、数曲のピアノ小品がある。これらの最盛期をなすのは146の歌曲で、中にはかなり長い曲もあり、また8曲は10月15日、7曲は10月19日の日付がある。, 1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(英語版)(1787 - 1836)と知り合った。この出会いは間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱のときもあったが、突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方マイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。2人の関係は、シューベルトに対して一方的に奉仕するものだったという。, シューベルトの運命に最初の変化が見えた。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いていた、法律学生フランツ・ショーバー(1796 - 1882)がシューベルトを訪問して、教師を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛りつけられているという思いが強まっていた。父親の了解はすぐに得られ、春が去るころにはシューベルトはショーバーの客人になった。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成させるとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていたという。, 1816年の作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のための『3つの儀式用カンタータ(D407)』、もう1つの『プロメテウス・カンタータ(D451)』はハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒たちのためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。彼は雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『カンタータ(D472)』である。もっとも重要な作品は『交響曲第4番ハ短調 (D417)』で《悲劇的交響曲》と呼ばれ、感動的なアンダンテがある。次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『第5番変ロ長調(D485)』、その他多少の教会音楽であった。これらはゲーテやシラーからシューベルト自身が選んだ詩だった。, この時期、友人の輪が次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手フォーグル(1768 - 1840)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタやファンタジーを演奏した。ゾンライトナー家は裕福な商人で、長男がコンヴィクトに所属していた縁もあって自宅を自由に使わせていたが、それは間もなく「シューベルティアーデ」と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。, シューベルトは貧しかった。それと言うのも教師を辞めたうえ、公演で稼ぐこともできなかったからである。しかも、音楽作品をただでももらうという出版社はなかった。しかし、友人たちは真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分たちの食事を分け合って食べ、裕福な者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい人が紹介されたときの、「彼ができることは何か?」という質問がこの会の特徴をよく表している。, 1818年は前年と同様、創作上は比較的実りがなかったものの、2つの点で特筆すべき年だった。1つ目は作品の公演が初めて行われたことである。演目はイタリア風に書かれた『序曲(D590)』で、これはロッシーニをパロディー化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏された。2つ目は初めて公式の招聘があったことである。これは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。, この年の作品には『ミサ曲(D452)』『交響曲第6番(D589)』(ともにハ長調)、ツェレスでの生徒たちのための一連の『四手のためのピアノ曲』、『孤独に(D620)』『聖母マリア像(D623)』『繰り言(Litaney)』などを含む歌曲がある。秋のウィーンへの帰りに、ショーバーのところには滞在する部屋がないことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになった。ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食のあと田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、あるいはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。歌曲の作曲家としての最初の公演は1819年2月28日で、『羊飼いの嘆きの歌(D121)』が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取り、フォーグルとともに北部オーストリアを旅行した。シュタイアーで「鱒(ます)」として有名な『ピアノ五重奏曲イ長調(D667)』のパート譜をスコアなしで書き、友人を驚かせた。秋に自作の3曲をゲーテに送ったが、返事はなかった。, 1820年の作品には進歩と形式の成熟が見られる。小作品の数々に混じって『詩篇23番(D706)』『聖霊の歌(D705)』『弦楽四重奏断章ハ短調(D703)』、ピアノ曲『さすらい人幻想曲(D760)』などが誕生している。, 6月14日に『双子の兄弟(D647)』が、8月19日に『魔法の竪琴(D644)』が公演された。これまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭でのカルテット演奏会から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接することが求められ始めた。相変わらず出版社は冷淡だったが、友人のフォーグルが1821年2月8日にケルントナートーア劇場で『魔王』を歌い、ようやくアントニオ・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781 - 1858)がシューベルトの作品の取次販売に同意した。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後、この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてわずかな版権を受け取り始めた。シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについては、多くの記事が見られる。2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより舞台に向けられた。, 1821年の年の瀬にかけて、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『アルフォンソとエストレラ(D732)』は受け入れられず、『フィエラブラス(D796)』も同じだった。『陰謀者(D787)』は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠だった)。劇付随音楽『ロザムンデ(D797)』は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アルフォンソとエストレラ』と『フィエラブラス』は、規模の点で公演が困難だった(たとえば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜)。しかし『陰謀者』は明るく魅力的な喜劇であり、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。, 1822年にカール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてベートーヴェンと知り合う。両者ともに親しい関係にはならなかったが、ベートーヴェンはシューベルトの才能を認めていた。シューベルトもベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による変奏曲(D624)』作品10を同年に出版するにあたり献呈している。しかしウェーバーはウィーンを離れ、新しい友人も現れなかった。この2年は全体として、彼の人生でもっとも暗い年月だった。, 1824年春、シューベルトは壮麗な『八重奏曲(D803)』『大交響曲のためのスケッチ』を書き、再びツェレスに戻った。またハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風喜遊曲(D818)』と『弦楽四重奏曲イ短調(D804)』を作曲した。, 舞台作品や公的な義務で忙しかったが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。『ミサ曲変イ長調(D678)』が完成。1822年に着手した絶妙な『未完成交響曲(D759)』も生まれている。ミュラー(1794 - 1827)の詩による『美しき水車小屋の娘(D795)』と素晴らしい歌曲の数々が1825年に書かれた。, 1824年までに、前記の作品を除き『《しぼめる花》の主題による変奏曲(D802)』、2つの弦楽四重奏曲『イ短調 <ロザムンデ>(D804)』『ニ短調<死と乙女>(D810)』が作られている。また『ピアノとアルペジョーネのためのソナタ(D821)』は、当時、ウィーンのギター製作家シュタウファーにより開発されたばかりの新しい楽器を用いた試みである。, 過去数年の苦難は1825年の幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスからしばらくは解放された。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中に、ウォルター・スコット(1771 - 1832)原詩の歌曲『ノルマンの歌(D846)』『囚われし狩人の歌(D843)』や『ピアノソナタ イ短調(Op.42, D845)』を作曲、スコットの歌ではこれまでの作曲で最高額の収入を得た。, 1827年にグラーツへ短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてウィーンに留まった。その間、たびたび体調不良に襲われている。, 晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。一つ目は1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。二つ目はオペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけ、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したが拒否され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。そして三つ目は1828年の春、人生で初めてで生前唯一の、彼自身の作品の演奏会である。, 1827年に、シューベルトは『冬の旅(D911)』『ピアノとヴァイオリンのための幻想曲(D934)』と2つのピアノ三重奏曲(Op.99/D898、Op.100/D929)を書いた。, 1827年3月26日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトは葬儀に参列した(ウィーン市民2万人の大葬列の中の一人)。その後、友人たちと酒場に行き、「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。このとき友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたという[3][4]。そして、彼の寿命はその翌年で尽きた。, 最晩年の1828年、『ミサ曲変ホ長調(D950)』、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ(D962)』、『弦楽五重奏曲(D956)』、『ミサ曲ハ長調(D452)』のための2度目の『ベネディクトス(D961)』、最後の『3つのピアノ・ソナタ(D958、D959、D960)』、『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D957/D965A)を完成させた。この中の6曲はハイネの詩につけられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集『歌の本』は1827年秋に出版されている。シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(のちにブルックナーの教師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いた。しかし何度かのレッスンのあと、ゼヒターはその知人からシューベルトは重病と知らされた。11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトの最後の手紙となった。, その後、シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。31歳没。フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。, 遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあったヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。1888年に両者の遺骸はウィーン中央墓地に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も二人の当時の墓石が残っている。, 死後間もなく小品が出版されたが、当時の出版社はシューベルトを「シューベルティアーデ(ドイツ語版)のための作曲家」とみなして、大規模作品を出版することはなかった。, シューベルトの死因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が彼の体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われている。シューベルト生誕200年の1997年には、改めて彼の人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開された。, 没後は歌曲の王という位置づけがなされ、歌曲以外の作品は『未完成交響曲』や弦楽四重奏曲『死と乙女』のような重要作を除いて放置に等しい状況だった。, 1838年にシューマンがウィーンに立ち寄った際に、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問した。フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くなった当時のままの状態で保存しており、シューマンはその机上で『(大)ハ長調の交響曲』がほこりに埋もれているのを発見し、ライプツィヒに持ち帰った。その後メンデルスゾーンの指揮によって演奏され、ノイエ・ツァイトシュリフト紙で絶賛された。ちなみにこの交響曲の番号は、母国語がドイツ語の学者は第7番、再版のドイツのカタログでは第8番、英語を母国語とする学者は第9番として掲載するなど、いまだに統一されていない。, この他の埋もれていた作品の復活に、1867年にウィーンを旅行したジョージ・グローヴ(1820 - 1900)とアーサー・サリヴァン(1842 - 1900)の2人が大きな功績を挙げた。この2人は7曲の交響曲、ロザムンデの音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を発見し、世に送り出した。こうして聴衆は埋もれていた音楽に興味を抱くようになり、最終的には楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルによる決定版として世に送り出された。, グローヴとサリヴァンに由来し、長年にわたって《失われた》交響曲にまつわる論争が続いてきた。シューベルトの死の直前、彼の友人エドゥアト・フォン・バウエルンフェルトが別の交響曲の存在を1828年の日付で記録しており(必ずしも作曲年代を示すものではないが)、《最後の》交響曲と名付けられていた。《最後の》交響曲が「ニ長調(D963A)」のスケッチを指していることは、音楽学者によってある程度受け入れられている。これは1970年代に発見され、ブライアン・ニューボールド(英語版)によって交響曲第10番として理解されている。シューベルトはリストの言葉でよく要約されている。曰く、「シューベルトはもっとも詩情豊かな音楽家である」。, シューベルトの多くの作品に即興性が見られるが、これは彼が筆にインクのしみをつけたことがないほどの速筆だったことも関係している。, シューベルトは歌曲以外にも、未公開作品や未出版作品を大量に遺したため、研究は難航した。, ピアノソナタなど、その他の作品が脚光を浴びるようになるのはシューベルト没後百年国際作曲コンクール(優勝者はクット・アッテルベリ)が1927年に開催されるころからであり、同時期にエルンスト・クルシェネクがシューベルトのピアノソナタの補筆完成版を出版した。, シューベルトのピアノソナタはベートーヴェンより格下に見られていたために録音しようというピアニストは少数だったが、その黎明期に録音を果たした人物にヴァルター・ギーゼキングがいる。没後150年を迎えた1977年ごろになると、シューベルトのピアノソナタは演奏会でかかるようになり、長大なピアノソナタを繰り返しなしで演奏することが可能になった(かつては省略が当たり前だった)。現在は初期から後期までの作品が演奏会に現れる。補筆して演奏するパウル・バドゥラ=スコダ(ピアノソナタ第11番)のようなピアニストも珍しくない。, シューベルト新全集は現在ベーレンライター出版社が全責任を取る形で出版に務めているが、オペラなどの部分はこれからも順次刊行予定である。音符の形やスコア全体のレイアウトはすべてコンピュータ出力で修正されているが、合唱作品はCarus社なども新しい版を出版している。, 現在の浄書技術をもってしてもデクレッシェンドなのかアクセントなのかの謎は、完全には解明されていない。そのため、『未完成交響曲』の管楽器についた音は、いまだに奏者や指揮者によって解釈が異なり定着していない。, シューベルトは一般的にロマン派の枠に入れられるが、その音楽、人生はウィーン古典派の強い影響下にあり、記譜法、基本的な作曲法も古典派に属している。貴族社会の作曲家から市民社会の作曲家へという点ではロマン派的であり、音楽史的には古典派とロマン派の橋渡し的位置にあるが、年代的にはシューベルトの一生はベートーヴェンの後半生とほぼ重なっており、音楽的にも後期のベートーヴェンより時に古典的である。, 同様に時期的にも様式的にも古典派にかかる部分が大きいにもかかわらず、初期ロマン派として挙げられることの多い作曲家としてカール・マリア・フォン・ウェーバーがいるが、シューベルトにも自国語詞へのこだわりがあった。ドイツ語オペラの確立者としての功績を評価されるウェーバーと比べると大きな成果は挙げられなかったものの、オペラ分野ではイタリア・オペラの大家サリエリの門下でありながら、未完も含めてドイツ語ジングシュピールに取り組みつづけた。当時のウィーンではドイツ語オペラの需要は低く、ただでさえ知名度の低いシューベルトは上演機会すら得られないことが多かったにもかかわらず、この姿勢は変わらなかった[5]。教会音楽は特性上ラテン語詞の曲が多いものの、それでも数曲のドイツ語曲を残し、歌曲に至っては9曲のイタリア語曲に対しドイツ語曲576という比率となっている。, 「ドイツの国民的、民族的な詩」に対し「もっともふさわしい曲をつけて、本当にロマン的な歌曲を歌いだしたのはシューベルトである」とし、ウェーバーらとともに、言語を介した民族主義をロマン派幕開けの一要素とする見解もある[6]。, シューベルトは幼いころからフランツ・ヨーゼフ・ハイドンやミヒャエル・ハイドン、モーツァルトやベートーヴェンの弦楽四重奏を家族で演奏し、コンヴィクトでもそれらの作曲家の交響曲をオーケストラで演奏、指揮していた。, シューベルトは当時ウィーンでもっとも偉大な音楽家だったベートーヴェンを尊敬していたが、それは畏怖の念に近いもので、ベートーヴェンの音楽自体は日記の中で「今日多くの作曲家に共通して見られる奇矯さの原因」としてむしろ敬遠していた。シューベルトは主題労作といった構築的な作曲法が苦手だったと考えられているが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来シューベルトの作風ではなかった。, むしろシューベルトが愛した作曲家はモーツァルトである。1816年6月14日、モーツァルトの音楽を聴いた日の日記でシューベルトはモーツァルトをこれ以上ないほど賞賛している。またザルツブルクへの旅行時、聖ペーター教会のミヒャエル・ハイドンの記念碑を訪れ、感動とともに涙を流したという日記も残されている。, コンヴィクトからの友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンが書き残した回想文は、シューベルトが11歳のとき、「ベートーヴェンのあとで、何ができるだろう」と言ったと伝えている。さらにオーケストラでハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲を演奏したときにはハイドンの交響曲のアダージョ楽章に深く心が動かされ、モーツァルトの(おそらくk550)ト短調交響曲については、なぜか全身が震えると言い、さらにメヌエットのトリオでは天使が歌っているようだと言った。ベートーヴェンについてはニ長調(第2番)、変ロ長調(第4番)、イ長調(第7番)に対して夢中になっていたが、のちにはハ短調(第5番)の方が一層優れていると言ったと伝えている。, ウェーバーとも生前に親交があった。1822年のウィーンでの『魔弾の射手』上演の際に知り合い、シューベルトの歌劇『アルフォンソとエステレッラ』をドレスデンで上演する協力を約束したが、のちの『オイリアンテ』についてシューベルトが、「『魔弾の射手』の方がメロディーがずっと好きだ」と言ったために、その約束は果たされなかった。, シューベルトはのちの作曲家に大きな影響を与えた。『大ハ長調交響曲』を発見したシューマンは言うに及ばず、特に歌曲、交響曲においてメンデルスゾーン、ブラームス、ブルックナー、ヨーゼフ・シュトラウス、ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウス、ドヴォルザークなど、シューベルトの音楽を愛し、影響を受けた作曲家は多い。, 彼が私的に行った夜会は、彼の名前にちなんで「シューベルティアーデ(ドイツ語版)」と呼ばれた。現在もキャッチフレーズとして使われることがある。彼は協奏曲を作曲することはほとんどなく、その慎ましいイメージも「シューベルティアーデ」の性格を助長させた。, 1828年に出版された最後の作品は、『連弾のための大ロンドイ長調op.107(D951)』だったことから伺えるように、生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。同じ時代に、これと同数の作品を作曲できたライバルはカール・ツェルニーのみである(31歳前後のツェルニーにはオペラや交響曲などの大規模出版作品は見当たらない)。それらに大規模作品は含まれず、極端な場合は委嘱作すら生前の出版はなく(アルペジョーネソナタなど)、没後も長期間にわたり出版が継続されている。最後の作品番号はop.173(1867)であり、すでにシューベルト死去から30年以上が経過していた。, 31歳でこの膨大な量は無名の作曲家では不可能であり、作曲家としてすでに成功と考えてよいという理由から、シューベルトが本当に貧しかったのか疑問視する声もある[7]。また、シューベルトを描いた肖像画は何点も作成されており、それらは対象を美化している。名士であれば肖像画を実物より美しく描くことが当時の画家の責務だったため、こうした待遇は、シューベルトが名士であった証拠と考えることができる。シューベルトはグラーツ楽友協会から名誉ディプロマを授与された(未完成交響曲)ときには25歳に過ぎず、この時点で彼は無名ではなかったと考えられる。, シューベルト作品の校訂は21世紀に入った現在でも簡単ではない。とくに「ヘアピン」ともよばれる特大のアクセントのような記号[8]をどう解釈するかが問題になっている。小節間をまたぐようにヘアピン[9]がわたっているものもある。これをデクレッシェンドと解釈するか、もしくはアクセントと解釈するかが問題となる。また、シューベルトは鋭いスタッカティシモのような縦線を使う(「未完成」の第二楽章)こともあり、19世紀の出版譜では通常のスタッカートに直されている。これも元に戻す動きが見られる。, シューベルトはMM表記を出版作品[10]以外は全く行っていない[11]ため、演奏家によって解釈の開きが大きい。, ピアノ作品には、現代ピアノでは非常に難しいオクターブの連続が『さすらい人幻想曲』ほかで頻繁に現れるが、これは当時の軽いダブルエスケープメント発案以前のシングルアクションではオクターブグリッサンドが可能だったためである[12]。親指と小指をアーチの形にして、横にスライドするだけでオクターブのレガートが達成できるが、ダブルエスケープメントを含めたダブルアクションを持ち鍵盤の深さが倍になった現代ピアノでは困難[13]である。, ラテン語のミサ曲では6曲すべてで典礼文の一部が欠落[14]しているが、これも理由がわかっていない。典礼文の写しを所持しておりそれに誤脱があったという見解が一般的だが、聖歌隊で数多くのミサ曲を歌ってきたシューベルトが、Credoでのカトリック教会の信仰の本質的な部分の欠如に気づかなかったという説には無理があると思われる。おそらく自身はプロテスタント教会やカトリック教会に対して一線を引いたキリスト教信者という意味で、あえて削除したという説を唱える学者もいる[15]。, シューベルトの1000近いスケッチ、未完を含む作品群は、オーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュ(Otto Erich Deutsch)により1951年に作られた英語の作品目録『Franz Schubert – Thematic Catalogue of all his works in chronological order』のドイチュ番号によって整理されている。シューベルトの場合、出版に際しての作品番号(op.)を持つものは170程度であるため、通常はD番号が使用されている。1978年にヴァルター・デュル(ドイツ語版)、アルノルト・ファイル(ドイツ語版)などによってドイツ語の改訂版『Franz Schubert – Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge』も作られた。, 日本語の完全な作品目録はまだ存在せず、かつての日本では作品番号を優先しD番号を後回しにしていたたが、現在はNHK-FMのアナウンサーも、ドイチュ番号をアナウンスするようになっている。, ドイチュ自身は目録の序文において、「D」を自分の名前の略記ではなくシューベルトの作品を示す記号と捉えてほしいと述べている。これに応え、このページでは「D.○○」とピリオドを打たず、「D○○」という表記を用いる。ただしドイツ語圏などではDと数字の間に半角スペースを入れ「D ○○」とするのが一般的である。通常「ドイチュ番号○○」などと読まれる。オーストリアなどではDeutsch-Verzeichnisという読み方のとおり、「DV ○○」と表記されることもある(オーストリア放送協会などで見られる[16])。, シューベルトは現在楽譜が残っているものだけで14曲の交響曲の作曲を試みている。そのうち有名な「未完成」も含め6曲が未完成に終わっている。よく演奏されるのは、ロ短調交響曲(D759)、通称「未完成」と、最後の完成された交響曲である大ハ長調交響曲(D944)、通称「ザ・グレート」(「ザ・グレイト」)である。それ以外では第5番(D485)も親しまれている。, シューベルト自身による標題は第4番「悲劇的」(D417)の1曲だけで、他は後世によるものである。第7(8)番ロ短調交響曲「未完成」はその名の通り、完成したのは第2楽章までで、第3楽章が20小節(ピアノ・スケッチも途中まで)で終わっていることからこう呼ばれるようになった。第8(9)番の通称である「ザ・グレート」という名前はイギリスの出版社によってつけられたタイトルだと考えられているが、ドイツ語では《Die große Sinfonie C-Dur》であり、「偉大な」という意味合いはない(同じハ長調である第6番と比較して「大きい方」程度の意味)。, 古い番号づけでは、完成された7曲に順に7番まで番号が振られた。そして「未完成」(D759)は、4楽章構成の交響曲としては未完だが2楽章は完成しており、非常に美しい旋律で多くの人に愛好されているため、8番の番号が振られた。, 他の未完の交響曲のうち、ホ長調D729は4楽章のピアノスケッチで完成に近く(楽譜に「Fine」と書き添えてあることから、一応は完成したとみなす音楽学者もいる[17])、シューベルトの死後フェリックス・ヴァインガルトナーやブライアン・ニューボールド(英語版)らの手によって補筆され、全曲の演奏が可能になっている。このため、1951年のドイチュの目録では作曲年代順に、ホ長調交響曲D729に第7番が割り当てられ、「未完成」D759が第8番、「大ハ長調」D944が第9番とされた。, しかし、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)が1978年のドイチュ目録改訂で見直し、交響曲第7番「未完成」、第8番「大ハ長調」とされた。最近ではこれに従うことが多くなってきているが、1951年のドイチュ目録のまま交響曲第7番ホ長調D729、第8番「未完成」D759、第9番「大ハ長調」D944とされることもまだあり、さらには後述の『グムンデン・ガスタイン交響曲』を第9番、「大ハ長調」を第10番とすることもあるなど、番号づけは混乱している。日本では、NHKがドイチュ目録に合わせて「未完成=第7番」「大ハ長調=第8番」にしている一方で、音楽評論家の金子建志は「長く親しみ慣れた番号を繰り上げるのは、単に混乱を引き起こすだけ」と主張している[18]。そして、「ナンバー抜きで〈未完成〉〈グレイト〉というニックネームで呼べば、一番簡単で、問題が生じない」とこの問題に対する見解を述べている。, 交響曲の同定のために調性も古くから使われてきた。すなわち、第5番D485を「変ロ長調交響曲」、「未完成」D759を「ロ短調交響曲」と呼ぶなどである。なお、ハ長調の交響曲は2曲あり、編成などから先に作曲された方(第6番D589)を「小ハ長調(交響曲)」(ドイツ語で「ディー・クライネ(Die kleine)」)、のちに作曲された方(D944)を「大ハ長調(交響曲)」と呼ぶ。「ザ・グレート」(独語「ディー・グローセ(Die große)」の英訳)の呼称もここから来ている。, シューベルトの手紙に言及があるものの楽譜が見つからず、幻の存在とされてきた『グムンデン・ガスタイン交響曲』(Gmunden-Gasteiner Sinfonie) D 849(1825年)は、研究により20世紀中葉以降はハ長調 D 944 「ザ・グレート」を指している可能性がきわめて高いとされている。もともとD 944は1828年の作曲と考えられていたためにこのD番号を持ち、D 849とは別であると考えられてきたが、この根拠となっていた楽譜の年号の記述が後世の加筆によると判明し、加筆前は1825年だったものと考えられている。このことが、「ザ・グレート=グムンデン・ガスタイン」という証拠とされている。, 一時はピアノ・デュオ曲『グラン・デュオ(D 812)』がD 849の原曲ではないかと言われ、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがその説に基づいてオーケストレーションを施したこともある。, その後、シュトゥットガルトでD 849にあたるホ長調の交響曲の筆写譜が「発見された」[19]とされ、ギュンター・ノイホルト指揮のシュトゥットガルト放送交響楽団による演奏の録音が南ドイツ放送でFM放送された。主題とその展開が「ザ・グレート」交響曲にそっくりで、シューベルトも「ロザムンデ」序曲の前によく似たD 590の序曲を書いていることから、スケッチのような意味で作ったという学説もあった。この曲は「ザ・グレート」と同じ素材と展開方法が使われ、下書き的役割を果たしたとも考えられた。, 楽器編成は D 944とまったく同じであり(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2、トロンボーン3、ティンパニ1対、弦五部)、第1楽章:Andante molto-Allegro(8分の6拍子 - 2分の3拍子、ホ長調、446小節)、第2楽章:Scherzo un poco agitato(4分の3拍子、嬰ハ短調、117小節)、第3楽章:Andante con moto(4分の2拍子、ホ短調、146小節)、第4楽章:Finale Presto(8分の6拍子、ホ長調、1066小節)、演奏時間約50分で現在シュトゥットガルトのGoldoni出版社からWerner Maser校訂[20]による楽譜が入手できる。録音は上述のものに続いて、ゲルハルト・ザムエル指揮シンシナティ・フィルハーモニー管弦楽団による新録音 (Centaur: CRC2139)[21]も発売された。しかし後日、このD 849とされたホ長調の交響曲は1973年にヘンレ社に楽譜のコピーを提供したグンター・エルショルツ (Gunter Elsholz) がシューベルトの残した断片を再構成した偽作であることが判明した[22]。, このため、グムンデン・ガスタイン交響曲はハ長調 D 944 「ザ・グレート」であるという説が現在も有力である。, 『ニ長調D936A』にはペーター・ギュルケ(ドイツ語版)補筆作曲版、ブライアン・ニューボールド補筆作曲版などがある。異色なのはイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオの手による補筆作曲版の「レンダリング」である。「レンダリング」ではスケッチの部分はスケッチのままで、それ以外の判然としないスケッチとスケッチの間の部分は現代音楽の手法でつなぎ合わせている。, 最後の交響曲は自筆譜のままでは完成しておらず、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)は番号を附していないが、10番などとされる場合もある。, いくつかの歌曲には、後世の作曲家による管弦楽伴奏版やピアノ独奏への編曲版も存在する。ピアノ独奏用編曲についてはフランツ・リストやレオポルド・ゴドフスキーによるものが知られている。, 多くの分野に代表作を残したシューベルトとしてはもっとも評価が低い領域で、上演機会は少ない。, シューベルトは詩の芸術性に無頓着で、時折凡庸な詩に作曲してしまうこともあったと言われている。確かに彼の歌曲にはゲーテやシラーといった大詩人以外に、現在その中にしか名を留めていない詩人の手によるものが多く存在している。ただしこれは「シューベルティアーデ」で友人たちの詩に作曲したものを演奏するという習慣があったことも影響している。, シューベルトが作曲した詩人は多い順にゲーテ、マイアホーファー、ミュラー、シラー、そして重要な詩人としてマティソン、ヘルティ、コーゼガルテン、クラウディウス、クロップシュトック、ザイドル、リュッケルト、ハイネなどがいる。自分より前の世代に評価が定着していた詩人から、新しい時代の感性を持った詩人まで幅広い。, 現在シューベルトの名が附されたコンクールは二つある。ひとつは長い伝統を持つドルトムントで行われる「シューベルト国際コンクールドルトムント」で、現在はリートデュオ部門とピアノソロ部門が交互に行われる。もうひとつはグラーツで行われる「フランツ・シューベルトと現代音楽のための国際室内楽コンクール」で、作曲部門と室内楽部門が併設されている。どちらもシューベルト作品のみでは競わないが、関連した楽曲や編成が焦点になっている。, シューベルトの友人であるヒュッテンブレンナーのもとで自筆譜を保管中、ヒュッテンブレンナーが留守中に同居人が全3幕中、2・3幕の楽譜を、焚き付けにしたため失われた。, 金子建志『交響曲の名曲 1 こだわり派のための名曲徹底分析』音楽之友社、1997年、25ページ。, 金子建志『交響曲の名曲 1 こだわり派のための名曲徹底分析』音楽之友社、1997年、133ページ。, full score SCHUBERT d.849 E major symphony GOLDONI, The accent question in Schubert: An old theme with new variations, Figure 20 Schubert D 935/3 bar 28, Cortot's tempo flexibility (1920 recording), Howard Ferguson has drawn attention to the double-octave triplets in the final phrase of D784・・・, The one passage omitted in all of Schubert's masses is "Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ec- clesiam", Schubert's Symphonies - A New Symphony & A Review - Dave Lampson, Catalog of Works by Franz Schubert(フランツ・シューベルトの全作品リスト), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フランツ・シューベルト&oldid=80319312, 「未完成」。第1・2楽章のみ完成、第3楽章は冒頭のみオーケストレーション、続くトリオの最初の反復までのスケッチが残存。.

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